神々への依存 その3 | ゆるりのブログ

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私個人の思うこと、感じることなどを徒然に綴っています。

私の言葉がキツく当たる方はご遠慮下さい。

つまり、私が言いたいのは、自分が作り出した穢れを神に祓ってもらうというのは、自分で汚した部屋の掃除を業者に頼んでしてもらうようなことではないかということだ。



確かに、それで目の前の自分の部屋は綺麗になったのかも知れないけれど、自分の部屋から出たいろんなゴミ(穢れ)は、その業者によってどこかに不法投棄されているのかも知れないということ。



つまり、自分の部屋の掃除を人任せ、神任せにするというのは、自分が抱える問題(ゴミ)を誰かに丸投げして、とりあえずの急場しのぎをしているだけであって、何の根本的解決には至っていないということだ。



そうやって綺麗になった部屋にまた、ゴミを散乱させ汚部屋に変貌させる自分。



そしてまた、掃除してくださいと神様に泣きつく。



年端もいかない子どもじゃあるまいし、大の大人のすることじゃあないよね。




「水」は世相を映し出す水鏡。



水が汚れているなら、それは世の中が穢れ(汚れ)ているということ。



水や環境を浄化するというバクチャーや、比嘉照夫さんが考案したEM菌というのも最近読んだ本で知ったけれども、それらの活動はとても良いことだと思うのに、何か引っかかる、積極的に参加したいという気持ちが起こらなかったのは、きっとそういう“引っかかり”があったからだ。



民衆の心(意識)は何も変わらないのに、相も変わらず化学薬品や合成洗剤などを当たり前に使って垂れ流しているのにもかかわらず、それで汚れた水や環境を人の手で“強制的”に綺麗にする。



それは、件の大阿闍梨のようにして誰かや何かが肩代わりしているだけで、そこには大きな道理の“ねじれ”が生み出される。



私たち日本人に、更なる因縁を背負わせることになる。



宇宙の理はあくまでこうだ。



自分の尻拭いは自分でしろ。



自分の出したゴミは自分で片付けろということ。



自分自身のあり方が穢れや因縁を生み出し、作り出していることに気づき、そのことを自覚して、今後それらを極力作り出さないように生き方を改めて行くこと。



そうすることで、自分が持つ穢れや因縁というのは解消されて行く。



誰か任せ、何か任せ、神任せは何の解決にもならないし、世の中を良くすることにも繋がらない。



ただ祈っているだけで世の中は良くならない。



本当に良くしたいと思うなら、世界平和を願うなら、自分自身で作り出している穢れについて自覚することだ。



周りを変えようとすることに腐心するのではなく、自分自身を変えることに意識(心)を向けることだ。



それしかない。





つづく