魂の発現と世界平和 | ゆるりのブログ

ゆるりのブログ

私個人の思うこと、感じることなどを徒然に綴っています。

私の言葉がキツく当たる方はご遠慮下さい。

もっと世の中が良くなれば良いのに…。



そう言って世界平和を願う人は多いと思う。



私もその中の一人。



けれども、こうも思うのだ。



世の中が良い人たちしかいなく、何の心配も不安もない、何のストレスもない世界。



そういう世界を私たちは本当に望んでいるのだろうか?と。



そういう世界が実現したとして、私たちはその世界でどのように生きるのだろうか?と。



“今”の私たちが平和な世の中に行けば、それはそれは嬉しいと歓喜するだろう。



永年の願いが叶ったと、以前の酷い世の中との対比によって、感謝の気持ちで過ごすことも出来るだろう。



けれども、最初からそういう世界に生まれて、そういう世界しか知らないのだとしたら…。



ぬるま湯のようなその世界は、とてもとても退屈でつまらないと思うのではないか。



そして、そんな人間に感謝の気持ちなど生まれるはずもない。



そんな世界が“当たり前”だと思っている人間に。



そうなればまた、世の中というのは破滅に向かう。



そのループ。



そして思う。



私たちの魂というのは、苦しみの中でこそ発現するのではないか、と。



ぬるま湯に浸かっている人間に魂の発現は起こり得ない。



ということは、私たちが良いこと、世の中の人々の為だと思って願う平和というのは、魂にとって余計な願い(祈り)なのではないのかと。



そして、それを逆手に考えてみると、私たちが自分の魂を発現させるまで苦しみの世界は続くということだ。



平和を望むなら、苦しみから解放されたいなら、私たちというのは、「魂の発現」を為さなければならない。



私たち人間には、「朱に交われば赤くなる」という性質がある。



私たちにとって、平和な世界で良い人でいることも、荒れた世界でやさぐれた悪人になることも同じ、当たり前で容易いことなのだ。



良くも悪くも、私たち人間というのは周りの環境(世界)に大きく影響されるということだ。



けれども、魂というのは違う。



周りがどんな世界でも、どんな環境でも等しく変わらないもの。



そういうものが、私たちがそれぞれ持っている本来ある魂の性質。



苦しみの中であっても、どのように教育されたとしても、損得勘定による損を取ることになっても、自分の中にあるその性質に添うこと。



そのようにあることが自分の魂の発現につながる。