祈り | ゆるりのブログ

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私個人の思うこと、感じることなどを徒然に綴っています。

私の言葉がキツく当たる方はご遠慮下さい。

【祈り】意味

祈り(いのり)とは、宗教によって意味が異なるが 世界の安寧や、他者への想いを願い込めること。利他の精神。 自分の中の神と繋がること。 など神格化されたものに対して、何かの実現を願うこと。 神の定理は各宗教による。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より





祈りとは本来神聖なものだ。



邪な思いを持って願うことを祈りとは言わない。



けれども思ったのだ。



祈りとはともすると他者への“干渉”になるのではないかなと。



純粋な思い(祈り)は奇跡をも起こす。



例えば、生死をさまよっている人物が助かるようにと祈ることは、その数が多ければ多いほど、その思いが強ければ強いほど、祈りは奇跡を起こす力となり得る。



人ではないけれど、YouTubeでの人気チャンネル「タイピー日記」で、まだ生後2ヶ月にも満たなかった保護猫ソランが瀕死状態から回復したことがあった。

(今も元気にしています)



私は多分無理だろうなと思って観ていたのだけれど、奇跡は起きた。



それは多分に獣医さんの的確な指示と、懸命なタイピーさんの看病によるものだとは思うけれども、その時に感じたのは、ソランが回復するようにと祈るコメントの数の多さだった。



確か、その頃のチャンネル登録者数は50万人はいたと思う。



その全員ではないにしろ、チャンネルを観ている多くの人たちがソランのために祈ったのだ。



私には、その人たちの“念”がソランを救ったのだと感じた。



普通に考えて、あんな小さな仔猫があの状態から助かるなんて考えられない。



本人の生きる意志がよほど強くでもない限り。



子供や赤ちゃんというのは、まだ生きることやこの世の中にそれほどの執着や未練はないから、あっさりこの世を去る。



しぶとさとは執着だ。



そして、本人が去ろうとしているのにもかかわらず、それを引き留めるような祈りは本人の自由意思への介入、“干渉”になるのではないのかと思ったのだ。



それで気が変わって戻ったのなら良いのだけれど、本人は去ると決めているのに、そこにそれを阻止する念が入ると“歪み(ひずみ)”が生じる。



これは、あくまで私が個人的に何となく感じて思っていることなのだけれど、ソランの肉体には最初のソランとは違う“別の存在”が入ったのではないかと思っている。



肉体が無くて憑依してでも生きたがる存在というのはいると思うから。



そういう存在が、去ることに決めたソランの身代わりに入ったのじゃないかなと。



「祈り」は、ともすると原因結果の法則や宇宙の予定調和のシナリオを捻じ曲げる。



そこには歪みが生じ、それは因縁となって別の誰かが肩代わりをして背負うことになる。



人間の場合だと、自分の子供や孫にその因縁が行く。



要は、自分が背負うはずだった運命を子孫に肩代わりさせるということだ。



政治でよくある先送り問題と同じ。



自分に降りかかったり、自分が引き起こしている困難や問題は自分の手で解決して乗り越える、またはそのように尽力する。

(誰かにアドバイスをもらったり、サポートを頼むのは良いとしても、丸投げはダメだということ)



原因結果の法則を受け入れる。



自分で作った原因の結果を、それが悪いことでも受け入れる。



嫌なこと(向き合いたくないこと)から逃げ続け、無難を選び、難逃れをし続けていると、それは因縁となって延々と子の世代へ先送りされて行く。



その先祖からの因縁が溜まりに溜まって吹き溜まっているのが、今のこの現代社会でありコロナ禍の惨状。



そんな気がしている。