最近になって、嫌で面倒くさくて、できればしたくない草むしりが瞑想のようだと思うようになった。
別に草むしりだけじゃなくても、時間やノルマといった何かに追われたり、せっつかれたりすることなく、自分のペースで黙々と無心でできる「作業」全般。
そこからさらに広げると、茶道などの“作法”というものも瞑想になる。
間違えないだろうか、師匠(先生)に注意されないだろうかと、手順や人の目を気にしてビクビクしてするレベルのものではなく、すでに身についた動作を無心になって行う作法。
“ゆっくり、丁寧に行う作業”
普段、面倒くさかったり、嫌々仕方なくやっている家の家事なども、そうやって行えばすべてが瞑想になる。
洋服を畳むのも瞑想、野菜を切ること、洗濯物を干すこと、ご飯を食べることも瞑想だ。
そうすると、私たちが行なっていること全般、私たちの生の営み自体が瞑想になるということで、つまり、“人生とは瞑想だ”ということが言える。
けれども、日々やらねばならないこと、早く早くと時間に追われて忙しくしている現代人には、それは到底たどり着けない概念だし、境地だろう。
ゆっくり、ゆっくり。
どれだけ働いても、何を手に入れても今の生活が、人生が何か違うと感じるなら、自分の行いを瞑想に近づける努力をしてみるといいと思う。