例えば、学校での「廊下を走ってはいけない」という規則やルール。
それを一番最初に決めた人は、なぜそんなルールを作ったのだろう?
走ると危ないから?
うるさいから?
まあ、きっと、危ないからという理由だったのだろう。
走ったり歩いたりしている人が混在する廊下は、ぶつかったりの事故が起こりやすいから。
皆んなが歩いている方が「安全」だ。
けれども、危ないなら危ないなりに、そういうルールが決められる以前の人たちは、周りに気を配って気をつけて歩いていたはずだ。
向こう見ずに走ってくる人がいたら自分で避けれるくらいには。
もしそれでぶつかったりしたら、自分もぼーっとして歩いていたということ。
ぶつかってきた人間に腹は立っても、その危険を回避できなかった自分にも非はあると思える。
今度から気をつけようと思える。
けれども、「廊下を走ってはいけない」というルールがあったらどうか。
その場合は、ぼーっとして歩いていても、どれだけ注意散漫でいても、走ってきてぶつかってきた方が悪いとなる。
ルールを守らなかった方が一方的に悪いということになる。
それが、今の現代人の思考の根底になっている。
ルールさえ守っていれば自分は安全で守られる。
悪いのはすべてルールを守らない方。
そうやって何でも他人のせい、周りのせいにして済ませる思考。
もし何かトラブルが起きても、自分はちゃんとルールを守っていたんだからと反省もしない。
または、運が悪かったで済ます。
自分からトラブルを避けるという危機回避能力が皆無で、ルールが自分を守ってくれると思っている。
ルールが一つ増えるごとに人々の思考は停止する。
考えなくなる。
一番大切なのはルールを守ること。
それが例え、どんなに無意味で意味不明なルールだったとしても。
皆様の「安全と安心のために」という耳触りの良い言葉に誘導され作られるルールによって、私たちはどんどん狭い柵の中に追い込まれて飼い慣らされて行く。
そうやって、ルールが増えるのと比例するように、それを守れない非常識な人間(脱落者)というのも増えて行き、世の中というのはますます不寛容になって行く。