なぜ、生きなきゃいけないの?
なぜ、がんばらないといけないの?
なぜ、働かなきゃいけないの?
なぜ、お金を稼がなきゃいけないの?
なぜ、死んじゃいけないの?
なぜ、人を殺しちゃいけないの?
私たちが思う「なぜ」は、“絶対”ではない。
私たちが疑問に思うことはすべて「そうしなければいけない」という“義務”ではない。
だから、どちらでもいい。
自分が、そうしたいか、したくないかの選択をするだけ。
でも、一旦選択したからには、そこに努力や義務、責任が発生する。
生きると決めたなら、ご飯を食べなければいけないし、死ぬかもしれないような危険なことには近づかない、関わらないようにしなければならない。
反対に死ぬと決めたなら、死ぬための努力、確実に死ねる方法を調べて、それを実行するという「行動」を起こさなければいけない。
(そして、実際にそのように現実は向かう)
じゃあ、どちらにも決めない、生きるのも嫌、死ぬのも嫌という人たち、惰性で生きているような人たちは?
「決めない」ということは、ある種責任逃れ。
周囲へ責任転嫁して生きている。
「生きる」と決めている人は、生きる方向での選択ができる。
例えば、今話題のワクチン。
危ないと感じる人は、迷わず打たないことを選択できる。
打った方が生につながると感じる人も、迷わずワクチンを打つことを選択できる。
打つか打たないか、どちらがいいか迷っている人は、どちらの選択もできない人。
周囲へ責任転嫁しながら生きている人。
自分が生きることも、死ぬことも他人任せにしている人。
生きるのか、死ぬのかどちらにも決めないで生きている人。
ロシアンルーレット(ギャンブル)的に生きている人。
自分で「決め」れば、とにかくそちらへ現実が動いて行く。
一見、それとは真逆の現実が起こっているように見えても、確実にそちらへ向かっている。
不利な選択をしているように思えても、それが自分の中の感覚に沿ったもの(目先の損得や価値観、常識にとらわれないもの)なら、確実にそうなる。
その未来へつながっている。