ワクチンを打つか打たないか、そこが問題だ。 | ゆるりのブログ

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私個人の思うこと、感じることなどを徒然に綴っています。

私の言葉がキツく当たる方はご遠慮下さい。

なぜ、生きなきゃいけないの?



なぜ、がんばらないといけないの?



なぜ、働かなきゃいけないの?



なぜ、お金を稼がなきゃいけないの?



なぜ、死んじゃいけないの?



なぜ、人を殺しちゃいけないの?




私たちが思う「なぜ」は、“絶対”ではない。



私たちが疑問に思うことはすべて「そうしなければいけない」という“義務”ではない。



だから、どちらでもいい。



自分が、そうしたいか、したくないかの選択をするだけ。



でも、一旦選択したからには、そこに努力や義務、責任が発生する。



生きると決めたなら、ご飯を食べなければいけないし、死ぬかもしれないような危険なことには近づかない、関わらないようにしなければならない。



反対に死ぬと決めたなら、死ぬための努力、確実に死ねる方法を調べて、それを実行するという「行動」を起こさなければいけない。

(そして、実際にそのように現実は向かう)



じゃあ、どちらにも決めない、生きるのも嫌、死ぬのも嫌という人たち、惰性で生きているような人たちは?



「決めない」ということは、ある種責任逃れ。



周囲へ責任転嫁して生きている。



「生きる」と決めている人は、生きる方向での選択ができる。



例えば、今話題のワクチン。



危ないと感じる人は、迷わず打たないことを選択できる。



打った方が生につながると感じる人も、迷わずワクチンを打つことを選択できる。



打つか打たないか、どちらがいいか迷っている人は、どちらの選択もできない人。



周囲へ責任転嫁しながら生きている人。



自分が生きることも、死ぬことも他人任せにしている人。



生きるのか、死ぬのかどちらにも決めないで生きている人。



ロシアンルーレット(ギャンブル)的に生きている人。



自分で「決め」れば、とにかくそちらへ現実が動いて行く。



一見、それとは真逆の現実が起こっているように見えても、確実にそちらへ向かっている。



不利な選択をしているように思えても、それが自分の中の感覚に沿ったもの(目先の損得や価値観、常識にとらわれないもの)なら、確実にそうなる。



その未来へつながっている。