私たちというのは「忘れられる」ということをひどく恐れる。
だから、すぐに忘れてしまう人のことを「薄情だ」と言って非難したりする。
なぜか。
それは、私たちが自分という命を生き切っていないから。
自分という人間がこの世にほんとうに存在しているのかいないのか、生きているのかいないのか、存在している価値があるのかないのか、そういったことがとてもあやふやで曖昧でいるから。
「自分なんていてもいなくても同じ」
そういった根底にある思いが、私たちにそう思わせる。
だから、生きる証が欲しい。
せめて人には覚えていて欲しい。
忘れないでいて欲しい。
私という人間が存在していたことを。
だから、子孫を残すことに励んだり、お墓という記念碑を建てて、いつまでも偲んで欲しいと思う。
先祖という存在で、いつまでも覚えていて欲しいと願う。
反面、自分の命を生き切っている人にはそういった思いは存在しない。
人から忘れられようと何を言われようと孤独だろうと気にならない。
なぜなら、自分が生きているということを自分が一番体感してわかっているから。
人から認識されなくても、自分が確信的にわかっている。
だから、もし忘れられたとしても何も気にならない。
むしろ、自分が死んで残された人には、いつまでも悲しんでいないで、自分の生をめいいっぱい楽しく生きなさいと言うだろう。
動物たちも同じ。
動物たちには、人間のような複雑で悩みの種となるようなややこしい感情はないし、毎日を素直に生き切っている。
毎日がリセットされている。
だから、突然死んだって何の後悔もない。
毎日のその瞬間瞬間を生き切っているから。
人間だけが、あーでもないこーでもないと言って、いつまでもその時の感情や悲しみを引きずる。
それが、私たち人間がいつまで経っても幸せに生きれない思考の仕組み。