デンちゃんムーブメントが去ったら人気も落ち着いて、この後、だんだんと以前のような、のんびり通常営業に戻って行くのかなぁ。
そうなって行くのがいいなぁ。
で、もしかしたら、また偶然の出会いがあるかもしれないし…。
なーんて思ってたら、昨日、まさかの保健所での保護猫引き取りのお知らせ動画がupされてた。
え、もう?!!早くない??
とは、正直思ったけれど(実際にコメント欄の書き込み数も凄かったし、荒れ気味だったからね)、タイピーママの動画で経緯を知ったら、これも必然の出会いだったのだなぁと思った。
タイピーさんの「この子だ!」という直感があったらしいし。
そして、その動画で新しい仔猫ちゃんを観て思ったのが、「新しい」ということのエネルギーの凄さとその破壊力。
その仔猫ちゃんの登場で、一気にデンちゃんの記憶が色褪せるというか、過去のものになってしまった。
デンちゃんのことが、もう忘却の彼方に追いやられそうで、それを恐れた人たちが早すぎると言うのだ。
そして、悲しいのなら故猫を偲んで最低でも49日くらいは喪に服す、そのくらいの感覚は持つべきだろうという、そういう価値観が一般的に浸透しているから。
私もそんな感じだった。
しかし、タイピーさんは違った。
そして、逆に凄いと思い直した。
私がペットロスに陥った時は、それはもうその悲しみの辛さに、新しい子を受け入れるなんて怖くてできなかった。
この先また、この辛い別れを経験することになるなんて、そんなの耐えられない!という気持ちが大き過ぎたから。
それは今でも同じ。
けれども、結局はその時残った老猫が寂しかろうと新しい子を飼うことにしたけれども、それを決められたのも、新しい子が、亡くなった子の血筋を引いた子だったから。
今はもう、その時の怖さもどこへやら、新しい子がかわいくてかわいくて仕方がないけれども、やっぱりいずれ必ず来る別れを思うときは、なんとも言えない気持ちになる。
けれども、考えてみたら、というか、考えなくても当たり前過ぎて、普段忘れてたり、考えないようにしているだけなのだけれども、「死」というのはいつも私たちの側にいて常に離れずにあるもの。
生の隣には必ず死があるのだ。
生きているということは死ぬこと。
それは、この世の生きているものなら例外なく誰にでも起きること。
その当たり前過ぎる死をいちいち深く受け止めて、それをいつまでも不幸で辛いことだと悲しんでいたなら、私たちは生きていられない。
それだと、「生きている」こと自体が、不幸で辛くて悲しいことだということになってしまうから。
だから、私たちは「忘れる」のだ。
忘れるのは薄情なこと、忘れられるのは悲しいこと。
そういった価値観や思考が私たちには根づいているようだけれども、それでは、残されたものはいつまでもその気持ちを引きずって、その悲しい死を悼み続けなくてはいけない。
それは、私たちに幸せになってはいけないということと同義だ。
嫌なこと、辛かったこと、悲しかったこと、そういった思い出や感情はどんどん忘れて行けばいいのだ。
あんなこともあったなと。
それが、私たちが幸せに生きて行くという生き方になる。