常々思うのは、身体内部で自分が感じている「感覚」と実際に現れる表面上の動きは異なるということです。

 

例えば、このブログで「秋猴の身」というのも何度も出ていますが、実際に出現する動きが「常に腕を短くしたまま、一切腕が伸びない」という解釈にしてしまうと違ってしまうのです。

 

最後まで腕を先に出さないで、身体を寄せて打つ感覚ではあるのですが、最後に自然に結果として重力に引っ張られて腕が伸びる瞬間も否定しなくていいのです。

感覚として腕を短く使う感覚であればよく、「実際は違うじゃないか!」と判断してしまってはいけません。

 

ということは、誰かの動きを見て「なるほど、そうやればいいのか」と思って真似てみても、自分の感じている感覚と、その誰かの感じている感覚は全く違う場合も多いということを知っておくべきなのです。

 

言葉もそう。

言葉で伝えようとしている人の感覚と、その言葉を聞いてイメージする聞き手の感覚は異なるのです。

 

その差をどう埋めるか。

 

ここが吟味し研究すべきポイントになると思います。

 

五輪書内で武蔵は何度も何度も「吟味すべし」と書いているのはそういうことだと思います。

 

書いてあることをすぐに分かったつもりになるのが、「吟味がない」ということになります。

五輪書の誤訳が多いのもそのためだと思います。

 

関連記事

感覚は常に深化できる

腕は短く使う(秋猴の身)

「今の自分には分からない」ということを知っている大切さ