ブログで書くのはもったいないぐらいの内容の記事を書きます。
でも、ま、いいか。ほとんどの人が素通りになるでしょうから
五輪書の水の巻には次の記述があります。
一 打とあたると云事。
うつと云事、あたると云事、二つ也。 うつと云こゝろハ、何れのうちにても、 おもひうけて、たしかに打也。 あたるハ、行あたるほどの心にて、 何と強くあたり、忽敵の死ぬるほどにても、 これハ、あたる也。 打と云ハ、心得て打所也。吟味すべし。 敵の手にても、足にても、 あたると云ハ、先、あたる也。 あたりて後を、強くうたんため也。 あたるハ、さはるほどの心、 能ならひ得てハ、各別の事也。 工夫すべし。
これをどう解釈するか。
現代剣道から見ると「確信して打つことが大事。たとえ敵が死ぬほどの技であっても、確信した技でなければ、それは「打つ」ではなく偶然に当たっただけだ。確信した技が打てるように修行しなさい」と解釈することになると思います。
ネットで検索しても、残念ながらこういう解釈しか出てきませんでした。
しかし、武蔵は「「打つ」は「当たる」より価値がある」なんて一言も言っていません。
「確信して打つことが大事」なんてことも一言も言っていません。
ここで武蔵は、「打つ」よりも「当たる」について多くの字数を使って説明しようとしています。
多くの人が軽視しがちだからこそ、「当たる」の大切さを説明しようとしていると思うのです。
武蔵は、「兵法心持之事」においては「常の心」が、「兵法の身なりの事」においても「常の身」が大切だと言っています。
そうなりますと、「当たるは、さわるほどの心」を否定するわけがなく、むしろ肯定し、そういう心をよく工夫しなさいと言っているわけです。
私は、「偶然に出現した技などレベルが低い」と考えていたころは、偶然に出現した技を打ち切ることはできませんでした。
「偶然の技はダメだ」と思っていては、自分で自分にダメ出しして、技を途中で止めてしまうから打ち切れないのです。
そうではなく、「偶然に打てたら、それは稽古を重ねた自分の中の智の覚醒であり、最も理想的な技」と思うようになってからは打ち切れるようになり、後から「ああ、打てた~」と残心を味わう感じなのです。
これを武蔵は「当たった後に強く打つ」と表現しているように感じます。
「行き当るほどの心(感じ)」で、「さわるほどの心(感じ)」で間に入って技が出る。
この心(感じ)をよく研究しろと書いているわけです。
日本武術的にもこの解釈の方がしっくりくるように思います。
(普通はそんな弱い心ではダメだと思ってしまう。いえ、生死を決する勝負においてこの心になれるというのが武蔵の恐ろしいほどの強さです)
心身を水のように静かに穏やかなまま、まず無意識のうちに当たって、それを打ち切ってしまう。
「必然を求めず、偶然に添う」が大切だということに思います。
普通の常識的な解釈とは真逆で、へそまがりな解釈に思われるかもしれませんが、五輪書全体を通し、「一つのこと」として矛盾なく解釈しようとすると どう考えてもこういう解釈になるというのが私の見解です。
その証拠と言ってはなんですが、武蔵が五輪書を書く10年前に書いた「円明三十五ケ条」の「打つと当たると云う事」も記しておきます。
打つと当たると云う事。打つ(とは)理をたしかに覚え、試しものなどを切るように、おもうさま打つ事。又、当たるは、たしかなる打ち見えざる時、何れなりとも当たることあり。当たるにも強きあり。敵の身に当たりても、太刀に当たりても、当たり外しても苦しからず。真の打ちをせんとて手足を起こしたる心なり。
確信した打ちがある。しかし、確信した打ちが外れたら意図がバレて危険だが、無意識に動いた場合はどこに当たってもかまわないし、外れても動じることはない。それで良いのだ。確信した打ちを出す機会がなくても、「切る」という心が無意識に手足を動かすのだから、無意識に当たるということを知り、生かして打ち切れという意味であると考えます。
※続編を書きましたので「打とあたると云事 2」をお読みください
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