「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という言葉はよく耳にしますね。

 

野村克也さんもこの言葉を使っていたので知っている人は多いと思います。

 

元々は江戸時代の大名であり剣の達人であった松浦静山の言葉だそうです。

 

で、この言葉を現代の人は「負けた時は必ず理由があり、しっかりした準備がないときは負ける。しかし、準備ができてないのになぜか不思議と勝てる時はある。だから勝ったとしてもおごらずに努力を怠るな」といったような意味で使われているようです。

 

しかし、現在の私の解釈は「意図が入れば負ける。意図が入らず無意識が機能すれば必然の技が出現する」ということで、勝った後に「あ、打ち終わった」という技こそが必然の技であり、そのことを「不思議の勝ち」だと感じています。

 

「不思議の勝ちあり」=「無意識による必然の技が出れば勝つ」という感じです。

 

意図が入り、「ああしてやろう、こうしてやろう」と打つ技を決めたり、相手の心を読んだつもりとなれば打たれる。

 

「不思議の負けなし」=「意図が入れば負ける」という感覚です。

 

策略や意図がたまたま合えば勝つこともありますが、これは「不思議の勝ち」ではなく、策略がはまっただけ。はまらなかったら死んでいたと考えるわけです。

事前に考えた策略に心奪われれば居つくことになります。

 

いえ、無策であれというのではありません。

一対一の剣道ならあらゆる方法を会得した上で、本番ではそれらを意図的に出してこようとするのではなく、信頼できる無意識に任せられるまで鍛錬しておくということです(不動智)。

 

松浦静山の書いた『剣談』では、「道にしたがい、道をまもれば、勇ましさがなくても必ず勝ち、道にそむけば必ず負ける」ということも書かれています。

 

「理にかなえば不思議と勝ち、理にかなわなければ負ける」とも言えると思います。

 

 つまり私は「不思議の勝ち」こそ追い求めています。


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