前回の続きです。

 

武蔵が言いたいのは「当てる」のではなく、理に適えばおのずから「当たる」ということなんですね(「打つ」と「当てる」なら、どちらも意図的であることは同じことになってしまいますからね)

 

私の解釈を分かりやすく、私なりの補足を入れて現代語訳してみます。

 

「五輪書」

打とあたると云事。
うつと云事、あたると云事、二つ也。 うつと云こゝろハ、何れのうちにても、 おもひうけて、たしかに打也。 あたるハ、行あたるほどの心にて、 何と強くあたり、忽敵の死ぬるほどにても、 これハ、あたる也。 打と云ハ、心得て打所也。吟味すべし。 敵の手にても、足にても、 あたると云ハ、先、あたる也。 あたりて後を、強くうたんため也。 あたるハ、さはるほどの心、 能ならひ得てハ、各別の事也。 工夫すべし。

 

切るには、「打つ」ということと「当たる」ということの2つがある。

「打つ」というのは、どういう技であっても、意図を持って自分で認識してあれこれ打つことだ。

「当たる」というのは、意図を持たずとも理に適えば行き当るほどの感じで技が出現し、十分強く当たり、たちまちのうちに敵も死ぬほどの技ともなり、意図して打たずともそうなる これを「当たる」という。

「打つ」は意図的にやることであって「当たる」とは違う。違いを分かるように練りなさい。

 

敵の手でも、足でも、「当たる」というのは意図的になる前に当たるのだ。

当たった後は意図的に強く打つこともできる。

理に適って「当たる」が出現するようになるには、心を静めて、さわるほどの感覚が大切であり、よく稽古して身に着ければ「打つ」とは各別の感覚で切れるようになる。

よく工夫しなさい。

 

「円明三十五ケ条」

打つと当たると云う事。

打つ(とは)理をたしかに覚え、試しものなどを切るように、おもうさま打つ事。又、当たるは、たしかなる打ち見えざる時、何れなりとも当たることあり。当たるにも強きあり。敵の身に当たりても、太刀に当たりても、当たり外しても苦しからず。真の打ちをせんとて手足を起こしたる心なり。

 

「打つ」とは、理合を勉強して身につけて、その理合通りに試し切りをするのと同じように、意図を持って自分で認識してあれこれ打つことだ。

「当たる」は、明らかには打てる機会を認識できない場合でも、理に適っていれば技が自然発生するということだ。

「当たる」だからといって技が弱くなってしまうというようなことはなく、十分な強度のある技ともなる。

理に適って自然に出現する技は、敵の身に当たるも、太刀に当たるも良いのはもちろん、たとえ外してしまっても、心身共に崩れないのだから問題なく、次の技にもつながる。

真に切るという心が、絶妙の機会に底の心を覚醒させ手足を動かし「当たる」が出現するのだ。

 

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下手な訳ではありますが、武蔵の言いたいことはこういうことだと考えています。

五輪書全文から考えて、こういうこと以外にはないと私は考えております。

 

ネットで五輪書の打つと当たるということを検索してみて下さい。

どれもこれも私の解釈とは全く異なり、「偶然当たるなんてだめだ。きちんと攻めて相手を崩せば、正しく認識して打てる(打つは上等、当たるは下等)」というような解釈になってしまっていますゲッソリ

 

心身ともに とことん居つきを排除し、「見の目弱く、観の目強く」「上の心弱く、底の心強く」という武蔵が書いた五輪書の中に、居つく危険のある文章が紛れ込むわけがありません。

 

どちらを採用されるかはご自由に検討くださいませニヤリ

 

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