理屈でいくら正しいことを知っていても、身体感覚が届いてなければ、それは「知らない」のと全く同じことだと思います。
正しい理屈を知っているけど身体感覚が大間違いというのが私も含めて世間の大多数だろうと思います。
正しい理屈を知ってやってみても身体感覚は違和感があるため、その理屈を拒絶し、違うところで納得しようとし、それが正しいような気になるのが常だと思います。
短期間で納得したものは、大方は全く違うのです。
表面上同じように見えても全く違うのです。
分かる身体ができてこそ、分かるに相応しい稽古があってこそ、理屈の動きが核心であると体感できる日が来る。
「分かる」とは、身体感覚が理屈に届いた時なのだと感じます。
五輪書 水の巻 序文の抜粋
・おおかたにおもひてハ、道の違事多かるへし
・此道にかきつけて、すこしなりとも道の違、道のまよひ有りてハ、悪道におつるもの也
吟味が大事ですね。
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