(舞台に出る絵の考え方に間違いがあり、修正しました)
今日は、びわ湖ホールで二期会のモーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》。
結果としては、指揮とオケは抜群に良かった。歌手もレベルは高い。演出も面白い。でもなんか欲求不満なんですよね。
まず、指揮は素晴らしい。テンポがいいし、ここぞというところのスピード感、迫力もいい。音がそろって気持ちがいい。オーケストラもそれに十分こたえて、いい音を出していた。こんな指揮とオケでオペラを聴けるのは最高に楽しい。
歌手は、声も出ているし、大方いいんだけど、ほとんどの人がわずかに音が狂う。まともなのはレポレロの久保和範さんぐらい。なんか、ここぞいう時にはずすので、物語に入っていけない。ヴィジュアル的にはツェルリーナの嘉目真木子さんが最高。歌も声も演技も表情もよかった。突然ツェルリーナの歌を歌いだしたときにはちょっと驚いたけど。
演出はとても面白かった。開演前に緞帳に竪琴を持った裸婦と岩の上の男が書かれた絵が投影されていた。一幕は序曲から真っ暗の中で雷鳴と共始まり、若い現代の男女が雨宿りに屋敷に入るとそこは、床がななめで奥の床は水平だが、その奥もななめ。まっとうな屋敷ではない。ドン・ジョヴァンニは悪魔の館の主なんだ。
若い二人は、騎士長の殺人事件、ドンナ・アンナがマゼットを呼ぶ(呼ぶ前にご丁寧にも、部屋に戻って着替えてからマゼットを呼ぶ)とか、ドンナ・エルヴィラがドン・ジョヴァンニの口車に騙されるところを見る。
カタログの歌では過去の成果が亡霊となって舞台両側から現れる。これは新鮮。そして、雨宿りの女性が舞台上に現れた亡霊のような人たちの一人が持っていた指輪を奪い取ったところで亡霊たちから睨まれ、あわててツェルリーナのアリアを歌いだす。
それからはどたばたというより、順番にドン・ジョヴァンニを奪い奪われながら物語が進行する。ドン・ジョヴァンニは3人のうち誰かと抱き合っているし、みんなドン・ジョバンニを見るとうっとりする。マゼットまで押したおして服を脱がせる。食事のシーンも食べるのは3人の女性。順番に抱き合う。
騎士長は聖者の格好で出てくる。ドン・ジョバンニの館は悪魔の館なのだから当然だろう。ドン・ジョヴァンニを追放し、全員に十字を切ってドン・ジョヴァンニの魔力から解放する。しかし、騎士長が去ってから、再びドン・ジョヴァンニが表れ、三人の女性は再びドン・ジョヴァンニのもとに帰っていき幕となる。
さて、ある人から教えてもらったのだが、舞台に再三現れる絵はこの絵
だった。オデッセウスとカリプソ。オデッセウスがカリプソのもとで7年も暮らし、家に帰ることを決めたとき、カリプソはいろんなことをして止めようとした。結局、3人の女性はカリプソのようにドン・ジョヴァンニを自分のもとに引き留めるのに躍起になっていたのだ。
実際、3人とも服を自ら脱ぎながらドン・ジョヴァンニを誘惑する。誘惑するのはドン・ジョヴァンニではなく、3人の女性の方だった。でもドン・ジョヴァンニはそれを楽しみながら、自らの欲望も見たし、地獄から復活もする。復活したのは、自らの悪魔の館の魔力であり、その魔力で何百年もずっと女性たちを幽閉してきたからなのだろう。
劇の最初に手を付けたドンナ・アンナは戦前の富豪風、前に手を付けたドンナ・エルヴィラはルイ王朝的。そして新たな獲物は現代人。何百年もの間この悪魔の館ではドン・ジョヴァンニが手を付けた女性(男性も)が白い服の亡霊となって現れる。でも、ドン・ジョヴァンニも3人の女性も、2人の男性もそれで幸せなのだろう。なぜならそこは悪魔の館だから。
最初、無学な私は、オルフェウスの絵かな?と思った。オルフェウスは竪琴の音でどんな人でも虜にするということから、ドン・ジョヴァンニはどんな女も虜にする魔性の人なのだと言いたのかなと思った。
でも違った。逆だった。女性たちが、ドン・ジョヴァンニを誘惑したのだ。でも、そうなったのは悪魔の館に入ったためだろう。であれば、ドン・ジョヴァンニが3人の女性を悪魔の館に引き込み、館の力でそういう女性たちに変化させたともいえる。
私が舞台を見て思ったことは間違いでもないと思う。パンフレットの演出ノートを見ても、ドラキュラの話とかが出てくる。食事で女性たちを食べるなんてまさにドラキュラの世界だ。
「悪いものが地獄に落ちる」という単純な話を、「女性たちとドン・ジョヴァンニの関わり」に焦点を当て、それをドラキュラで表現した、とても秀逸な演出だったということだろう。ドン・ジョヴァンニの新しい見方ができたと思う。
印象がもう一つだったのは、歌手のせいかな?なんかそれだけではないような気がするけど、他にあまり思い当たらない。
でも、こんな刺激的な演出をして、それをしっかりやってのけたことに意味があるのかもしれない。新国より断然しっかりしている。関西のオペラも頑張ってくれよ。