父はどう想っていたのでしょう・・・ | よくいうかいえ ( Cahier)

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古布リメイク作家のつれづれ日記

こんにちは、古布リメイク・デザイナー あきやま幾代です。

昨日の冷たい雨の中
車検が済んだ車を引取りに出かけて思った事から
亡き父の想い出が蘇りました。

父は49歳の時に神谷町で都電から降りた時に
トラックに跳ねられて(10mも飛んだそうです・・・)死にました。

普段は仕事柄車で移動することの多い人でしたが
その時は虎ノ門辺りに車を引取りに出掛けたのでしょうか
都電を利用したのです。

夕刻の暮れなずむ頃は物が見え難いです。
仕事納めで交通渋滞も起こす時刻です。

虎ノ門病院から電話があり母と子供達で
駆け付けましたが、その晩意識の回復なく
息を引き取りました。

姉兄6人ですが、誰がそこにいたか
記憶にありませんが
私は、父の左手を触っていたような気がします。

父の呼吸が段々間隔を置き始めたと思ったら
間もなくスーッと最後の息を吐いたきり
止まってしまいました。


何度か人に話した気がしますが
こうして綴ったのは初めてのような気がします。

今でも神谷町から虎ノ門界隈を通ると
父を想い出します。


昔のお父さんは怖かった! と
ブロ友さんのブログで目にしたばかりです。

本当に怖いという記憶ばかり残っています。

父は千葉県の八日市場生まれの3男坊で
養子に出されて自動車修理工となり
母と結婚して6人の子供を設け
芝浦の広大な工場で働き続けました。

進駐軍や官庁の仕事を請け負うようになり
独立して品川に工場を開設しましたが
49歳で旅立ちました。

父と霞ヶ関を車で通る度に
「あそこは、通産省
こっちは外務省・・・」と

自分が車を納めている先の官庁の名前を
子供たちに教えました。
そして、名前を覚えないと大層機嫌が悪くなります・・・

それが怖くて、一生懸命覚えました。

きっと、自分の仕事のプライドがそうさせたのでしょう。
今ならその気持ちが分かります。


年に2度ほどお墓参りに連れられて
美味しい食事とお土産を買って貰えるのが
嬉しくて顔色を見ながら付いていったものです。


一番上の姉は生まれた時に
父が戦争で従軍していたので内地にいませんでした。
その為かどうか知りませんが、
私と10歳年の離れた姉には
厳しく接していたようです。

ある日の光景
父が富士山に登る時に持つ6尺棒を振り回して
姉を追い掛ける姿、それはそれは恐ろしかった!


父が49歳で死んだ時、私は中学2年になったばかりの頃です。
殆どその頃父とどう接していたかなど
記憶がありません・・・

新しいもの好きで色々買って来て
私たちは喜んだようです。
テレビも割に早い時期の購入でした。

ひとつ、素敵な想い出があります。
私が小学校低学年の頃に
患って入院した時に
父と母と私だけで病院へ行きました。
初めて両親に挟まれた、”私が独り占め” という感覚。

これがとても嬉しかったのです!
病の不安と同時に
やたら幸せな気持ちになった想い出です。


49歳で死ぬなんて可哀想!
普段父は、子供達とどう関わっていたんでしょう。
6人の子供たちの父親で幸せだと
感じた事はあったのでしょうか・・・

父がもっと長く生きていたら
私はもっと父が愉しくなる様に
傍にいられたでしょうか、
少しでも感謝を表すことが出来たでしょうか。

自動車修理や点検の度に
父を想うのです。




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