片腕の夢は日常 -37ページ目

片腕の夢は日常

ひそやかに、高らかに、ゆるゆるに、くるくるに、
fromここtoうちゅう

比較がデフォで生きてきました。

って話はもうここでも何度も何度も何度も書いたし
クチでも散々っぱら話しました。
でもここ数ヶ月がその集大成かという感じになっているので
日記にせっせと書いて考えたりまとめたり
吐き出したりしています。
しかし
それでは飽き足らず、もうホント、まじ、これ最後にしたいからって

感じでこちらでも書きなぐりやがることにしました。

不幸自慢だと思うならそう思えばいいや。
実際、そうだ。
陶酔、だっ!


私は母からずーっとずーっと姉ちゃんと比べられてきた。
姉は○で私は☓をつけ続けられてきた。
姉は母似で、私は(母が憎んでる)父似だといつも言われてきた(子供の頃から「お前のそういうところは本当にあいつによく似てる」と何度吐き捨てるように言われてきたことか」)。
姉が亡くなってから、母にとって姉は、
もちろん「ひどい娘」でもあっただろうけれど、同時に、永遠に「私の理想の娘」として残っていった。
そして残された不出来な次女をみるたびに「〇〇が生きていたら」と思った。
それを私はいつも感じていた。
私は常に「姉が死なないで私が死ねばよかった」とつい最近まで考え続けて生きてきた。
母は私を怒ったり詰るときには必ず誰かと比較する人だったから、
姉だけでなく色んな人と比較されてきた。
私はそうやって比較にまみれて育ってきた。

だから私は自分もそうすることが当たり前になってしまった。
だから、何を言われても比較されていると思うし、
比較されていると感じることに関してはものっっすごい敏感になっている。
え、いや、比較しているわけじゃないよ?と

普通の人が思うような言葉に敏感に反応して「比較されている」と思う。
それに関してはプロ中のプロだ(自慢するな)。

ある人が言った言葉があって、それは「だから本当だったら片腕子ではなく●●がよかった」とイコールではないのに
私はそういう捉え方をして苦しんだりもしている。

でも全ては自分の選択で、毎瞬選択の連続なのだが、
私は何事においても「比較をされている」を選択して、さらに「比較をされてダメ判定されている」を選択している。
そうやって生きている。
姉と比較をし、
どこぞの誰かと比較をし、
今はある人と常に比較をしている。

気持ちの悪い話をすると、
いや、でも私は120%信じているのだが
今、姉はそんな呪縛から私を解放するために頑張ってくれている。
死ぬほど頑張ってくれている。
亡くなっている人だが。
そして、実は本当はもうとっくにその呪縛は解けているはずなのだ。

 

今さっき、これを書いていて急に

こちらでも何度も書いてきたあるエピソードを思い出した。
以前、
生きづらくて生きづらくて、藁をもすがる気持ちで某心理カウンセラーさんの元へ行った。
その時、私はあまりの自己肯定感の低さで苦しんでいる旨を訴えた。
そうしたらその方はこんなことをおっしゃった。
「片腕子さん、今からこの言葉を言ってみてください。「私はお姉ちゃんにならなくてもいい」と。」
私はそれを聞いて「は?私、お姉ちゃんになりたいなんて一度も思ったことないけど?何言ってやがるんだ、このオヤジは」と思った。
でも言ってみてと言われたので仕方なく口にしてみた。
「お姉ちゃんにならなくていい」
その途端、自分でもビックリしたけれど、涙がボロボロボロボロこぼれてきた。
涙が全然止まらなくて小1時間泣いて、
その後もその言葉を思い出すたびに泣いて泣いて(笑)

あれ、5年前じゃないか!!!!!
信頼している手相カウンセラーのワジョリーナさんから
「お姉さんは5年前からあなたを救おうと手を尽くしてくれている」
という話を聞かされた(でも私はちっとも変わらなくて、それで今、出逢いを含めた大きな変化を強いられているのだった)。
そうか・・・・あの言葉は姉がカウンセラーに言わせたんだ。
そうだったのか・・・・。
と思ったら本気で泣けてきました。
お姉ちゃん、そうだったのかよ・・・・。
先に書いたように
この時のことはごくたまーに思い出すし、
ブログにも何度か書いているけれど、でも、でも・・・・
姉が言わせたんだ、という確信めいた思いは、初めてだ。

ごめん、お姉ちゃん。
そうやって5年前に一生懸命、私を解放しようとしてくれてたのに
私は頑なに岩戸にこもって青空の下に出ようとしなかったんだよね。
それで、やっぱり荒療治で、
すごく厳しい出逢いをさせてくれた。

片腕子は
お姉ちゃんとの比較に苦しんだように
今はある人との比較に苦しんでいる。
でも
「比較から解放されて、比較をして自分を貶めることはやめて
片腕子ちゃん本来の良さにフォーカスして」って
お姉ちゃんは言いたいんだね。

出逢った人のあの人に対するものすごいハイスペック高評価に比べると
私のことは比べ物にならない小さな小さなくだらないことに思えるから
私はその人への劣等感はそれじゃあちっともなくならないけれど、
でも、本当はそんなのは比較対象にならないんだ。


出逢った人にとって私の持っているものは特別なものなんだ。

ってのは何度も気がついてはいるんだけれど、
何かあるとすぐに崩れて風に飛ばされる砂のようになってしまう。
(それで5年かかった今でも難儀してます)

でも、ラストチャンスだと思って
泣いたり怒ったりもがいたりしながら、やっていく。

本当は簡単にいきたいね。

 

 

 

大きな大きな台風です。

本当に日本の大浄化だなぁと思いつつ、

災害の危険や避難されている方々、千葉のことなどなど考えると

どうか被害が最小限にすみますようにと祈るばかりです。

 

と、ちょっとスピっぽくキレイなことを言いましたが

エゴイストなので

まず何よりも自分の心の平安だよ、私!などと思っています。

 

自分が平和になると誰かが平和になる。

誰かが平和になると

そのまた誰かも平和になる。

そして世界が平和になる。

 

なーんてことを言うと

「キレイゴト言ってんじゃねーよ」と言われますな。

でも、私ができることはそれしかない、と思ってたりします。

 

今、秋山先生と画家のChieArtさんの対談本を読んでいて

上記のようなことも含めて

あれこれ感じている真っ最中。

そんな中、昨日、お友達とLINEでお話をしている中で、

彼女ある言葉に

とても感銘を受けたので備忘のつもりで書きます。

 

「前に秋山先生に、東京は自然がなくて息苦しいんですって相談したら、

自然とは想像すること(テレパシー)で繋がれるでしょ?と言われたのを思い出しました。

どんな場所でも、自分軸がしっかりしていて、愛を使って行動できれば

すり減ることなく、軽く生きられるんだろうな」

 

しみじみ・・・・。

 

どんな場所でも、どんな状況でも

自分の愛と平和のバイブレーション&エネルギーでいたいな、と

轟々とうねる暴風と暴雨の音を聞きながら

おいしいミルク珈琲を飲み

ブログを書いている

「わたしの台風の日」です。

 

お、地震もあった。

日本、そういうことですか。

 

 

POI

天気予報を見ないので
台風の様子がわかりませんが

最近、エネルギーのことを意識するようになって
地味にあれこれ読んでいたら

この台風も私自身の意識から作られたエネルギーなのだとすると、
今回はあまりに腑に落ちて
泣けてきます。

幸せってどういうことなのかしらん?

自作自演だし
意識が変われば世界が変わる。

それを体感させてくれる台風なのかーと
思ったり思わなかったり思ったり。

苦しくて苦しくて苦しくて
でも誰かが幸せにしてくれるんじゃない。
自分でどーにかせい!と思う。

周りを見ると
みんな、なんか、どうやら、感情がいい意味でも悪い意味でも激しくなってる、ような?
なにかを壊したくなったり
やたら前向きになったり
激しくネガティブになったり

人によって出方は違えども。
我々は地脈でつながっておるのよね?
や、わからんけど。

じゃあ私はどうしましょ。

言いたいこと言って
オージャスたっぷりのものをいただいて
心地いいことをして
自分に優しく優しく優しく
甘く甘く甘く甘くして
愛を抱えて

やり過ごそう。

心が壊れそうだけど大丈夫。
わたしの台風。
キレイに全てを流してください。
そんな風に思うたった今です。





音楽や舞台やその他文化系のものへの好奇心は
割と旺盛な方で
聴きたい観たい知りたい、っていっつもそればっかりです。

 

ただ、50に入り(50って!)
その辺りの好奇心が緩んできたところもあります。
それ、悪くなくって
だってさ、時間もお金も限りがある中で

どう取捨選択していくか、というのがすっごい悩みだったからさ(苦笑)
それが選択肢が少なくなるし執着も薄くなるから悩まないですむわけで。
 

でも、自分の感性の殻みたいなものを破るという好奇心だけは

失いたくないって思ったりします。

 

ちなみに感性ってなんだろうね。
以前、坂本教授が誰かとの対談の中で

「自分の感性なんて信じてないよね?」というようなことを話されていて

それにえらく心を揺さぶられました。

もちろんその言葉の本当の意味というものを

私は理解していなかったし、

今は違う考えをお持ちかもしれないけれど、

少なくとも、
教授がいつまでも新しいものを追求するところや柔軟なのって

こういう考えがあったからなんじゃないかなぁ、と思ったりもしました。

 

私もそうでありたい。

何かが枯れたとしても、
そういう好奇心と柔軟さは保っていたいです。

 

あるクリエイターが

「生理的に苦手な表現はあるけれど、その先に何があるのだろうと思ってみるというのは

表現というものへの信頼があるから」

みたいなことをおっしゃってて、

また、それを受けて別のクリエイターが

「自分の生理にはないものを作る人や面白がる人に出会ったら

それは何故か、なにが面白いのかを考えてこそ、

自分ごときの小さな殻を破れる」

みたいなことをおっしゃっていて

 

えらく共感しました、はい。

 

音楽を聴いたり、舞台なんかもそうだけれど

私、よく「何がやりたいのかわからない」「何がいいたいのかわからない」ということを

思ってしまいがちですが、

そこで止まりたくない、と思っている自分もいます。

そして、

けっこう「わからないけど面白い」ものもあります。

かつ、「わからないから面白い」ということも往々にしてあります。
もたろん「わかるから好き!!!!」というのもたっくさんあります。

 

わかっちゃうもん、理解できちゃうもんなんて、面白くない。

というのは私の趣味の問題ではありますが^m^

 

だから、いつも

なんでこれは嫌いなんだろう、心に迫ってこないんだろうと考えたいし
だからって答えを無理にだそうとも思わないけれど、

そういう気持ちは持っていたい。

前出のクリエイターさんがおっしゃっていた

「自分ごとき」

という気持ちも常に持っていたんですよね。

自分の感性を疑う、というか。

「わかったつもりになんかならない」っていつも思ってる。

 

そしてそういう気持ちを常に持っている人が作る作品に

多分、私は心惹かれるんだろうなぁ、とも思います。

 

あ、もたろん逆に自分をしっかり持たなきゃいけないとも思うです、はい。
その両方の感覚があるのがいいのかな?

 

とりとめのない内容になっちゃった(いつものことか)

今朝、通勤中にふと思いついたことを書いてみました。

 

しいたけさんのツイートでこんなことが。

名倉さん、うつだったのか・・・・(有名な話か?)
満里奈さんのインタビュー記事が素晴らしかったとしいたけさんがおっしゃっているので
早速読んでみようかと思う。


しいたけさんのツイートもいい。

 

「自分に甘く」
無責任と言われてしまうかもしれないけれど、何かがきっかけで人生にブレーキをかける権利は誰もが持っている。

 

私は人生にブレーキかけるような状態に陥ってるわけでもないし
超ネガティブながらも実は楽観主義者、日本無責任女でもあるので
うつになることはないわけですが(多分)

 

それでも今、かなーーーーりしんどいところにいて
病的に変な妄想をしてしまいそれを真実だと思ってしまったり

神経過敏になったり、そのせいで幻覚っぽいものが見えたりするときがあります、ええ。

人間の脳みそってスゲーな、と感心したりしています、ええ、ええ。
感心するくらいだから実はそんなに重病ではないのですが(^_^;)

 

でも、精神的な問題は今の自分にタイムリーな話題なので読んでみようそうしよう。

で、やっぱりキーポイントは
しいたけさんおっしゃるところの

 

「自分に甘く」

 

というところだと思っています。

ちなみに
この言葉はものすごおおおおおおく危険なフレーズではあります。
「自分に甘く」なんて言った途端に
世間の「おれたちめちゃめちゃ頑張ってる」族がすっ飛んでやって来て

「なに甘ったれたこと言ってんだ!俺たちだって苦しんでいるけれど、
でも頑張ってるんだ!」「怠ける理由にしてるだけだろ!」
などと怒り出しますから・・・。
や、言いたいことはとてもとてもよくわかります。

 

でも、そういう単純な話じゃないと思う(赤羽ちゃん風に)(違)(つか古)(誰も知らない)

 

とにかく「自分に甘く」というのはものすごい大切なことだと思うのです。
そういえば服部みれいさんの著作に

「甘い、甘い、甘くて甘い」というタイトルのものがあったっけ(未読)。

 

ということで、読んでからまた書こうかな。

 

甘く、いこう、自分。