今朝の新聞で「名香・蘭奢待・信長が切り取り」と題する京都国立博物館の美術室長の寄稿文が掲載されていました
お読みになった方もいらっしゃるんではないかと思います
歴代天皇が勅封(正倉院から出すことを禁じる)していた蘭奢待(黄熟香と呼ばれる香木)を切り取った足利義満、義政に続いて織田信長が切り取ったことについて、当代の正親町(おおぎまち)天皇が前関白・九条植通に送った直筆の手紙に、権勢を誇る信長の所業に逆らえない悔しさをにじませていたという記事で、新しい国体を作り上げようと試み、力こそ正義で進んだ信長とその強大な権勢に抗した正親町天皇の確執
先日、wakuwakuサークルのウオーキングで安土城跡を訪ねたのですが、標高200mの安土山に築かれた石積みの階段、石垣以外に何も残っていない事や、それさえ発掘調査でやっと発見されたという事に、これが戦国時代の末期に権勢の頂天に昇り上がった織田信長が威信をかけて築いた城の跡なのかと驚き・・覇権の何たる哉
正親町天皇と信長、権力を取り巻く「忖度」「面従腹背」世間の在り様を垣間見た様な気がしています
安土駅を降り、町中を通って安土城を目指します
米の生産地というに相応しい田園風景の中を歩きます
圃場整備がなされているから田の区画がまっすぐです
道端の畑で麦刈り中のお百姓と立ち話
「ここから見はるかす田と山の向こうにある田合わせて、13町歩の田でコメを作っているが採算に合わなくて、後継者が見つからない」と聞いて・・
「えぇ1町は約10.000㎡→1haだから13haの田圃でもあかんの
」
何か日本の農業政策なのか経済政策なのか、間違っているんと違う、と思います
はじめに「安土城天主信長の館」を見学
歩いて程なく安土城跡に到着
平成元年から20年計画の発掘調査が始まり、平成13年に復元された大手道入り口
長く続く階段を見上げて「もうここらで下に降りて待ってるわ」と言う組と折角だから上ってみると言う組に分かれます
大手道の道すがら豊臣秀吉や徳川家康の屋敷跡だという石碑が建っていますが、ボランティアの語り部さんから「ほとんど何の資料も残ってないので本当のところは分らないんですよ」と説明
更に進んで天主に近づくと織田信忠、森蘭丸の邸跡という石碑
語り部さんの説明では、天主近くの邸跡はどうやら信長の側近らの住居があったようです
二の丸を上り過ぎるといよいよ天主の跡です
安土山の頂上に天主跡があり、地下1階地上6階建てと言われる天主の礎石が残っています
琵琶湖を眺望する天主から織田信長はどんな思いを馳せていたのかと・・汗だくの顔をぬぐいます
安土城跡を巡って頭に浮かぶのは・・このお城に関する資料は、階段の石積、石垣以外には何も残っていない、・・何もかもが破壊されてしまったんだろうなぁ・・
築城に3年掛け、完成して3年後に本能寺の変で織田信長が斃れ、安土城が灰燼に帰した
信長はおそらく城を中心にして城下町を形成し、中心都市としての繁栄を夢見ていたんだろうなぁと想像されるし、その後の豊臣政権、徳川政権において信長、安土城に対しては何らの回顧もされなかったんだろうなぁ・・初夏の風が吹き抜けて行くようでした
和歌山市議会議員 北野 均