日本画の大家・川端龍子の作品を専門的に管理、展示する記念館が東京都大田区にあります
こんなところに美術館があるのか、と思うような閑静な住宅街の一角に建っています
昭和41年に和歌山市名誉市民の称号を贈られた川端龍子は、明治18年和歌山市本町3丁目の呉服屋の長男として生まれました
家業の呉服商は親の身代で終わり、明治28年に母、妹と共に上京、東京府立第三中学校時代に読売新聞の「明治30年画史展」に入選したことをきっかけに画家を志向、紆余曲折を経て独自の境地に至った日本画の巨匠です
当初は洋画を学ぶためアメリカに留学、特に得るところを見いだせなかったという事ですが、ボストン美術館で「平治合戦絵巻」、「シャバンヌの大壁画」を鑑賞、非常に感銘を受け、その後、日本画に進んだそうです
和歌山に居る頃、実家の近所にある提灯屋主人が描く鯉の絵に我を忘れて見とれ、見様見真似で鯉を描いたことが画業に向かわせた
・・龍子翁が述懐されたとか
県民文化会館大ホールの緞帳の図柄「筏流し」は有名です
原画の大きさは2m42cm×7m29cmという大作です
昭和31年作「酒房キウリ」
川端龍子は河童(かっぱ)の絵をたくさん描いています
龍子曰く「私の架空の愛玩動物とでも言いましょうか、時には自分の代弁者となって時事への関心を発信したり、時には又、自らの演出で、自己満足を楽しんだものとも言えるでしょう」と
生きた時代を素直に受け入れた龍子翁の心持を思います
川端龍子記念館の入り口です
この日は休館でしたが、和歌山からの来館ということで館長、主任学芸員が出迎えてくれました
壁に立てかけた額縁の大きさに驚きます
大作主義といわれる所以、なるほど
昭和37年川端龍子が個人で自らの作品展示用に建て、平成3年に大田区に移管されたこの記念館は、一年一作で発表した大作の展示用に設えられています
開館当時は自然光で鑑賞されていたそうですが、太陽光などによる作品の経年劣化を避けるため現在はカーテンで遮光した展示となっています
入口付近で実物大の龍子像が出迎えてくれます
ヘビースモーカーだったとの事で、手にはタバコが・・・嬉しいですね
同じポーズで失礼しました
道を隔てて、「御形荘」と銘打った邸宅とアトリエを案内してもらいました
竹垣に囲まれた小道が玄関前に誘います
お住まいだった邸宅の玄関
建築好きという龍子は、和様の邸宅を建てるに当たり、建材、特に竹にこだわったとの事で、細部に亘り凝った造りを見ることが出来ます
室内には龍子が彫った窓飾りや襖絵が見られます
アトリエへ続く竹垣に囲まれた通路
通路を抜けると視界が開ける様にアトリエが現れます
アトリエ内の事務机、当時はまだ珍しかった電話で、創作依頼や完成作品の引き取りなどのやり取りをしていたそうです
広いアトリエの一角に往時のまま絵の具、絵筆が置かれています
戦時の物資困窮の中で、暖房のためにストーブを焚くことが出来た、ということに驚いたと館長の説明
この場所に落ちた爆弾の跡に地下水が湧き出たので、「爆弾散華の池」と銘打って整備したのだとか
洒脱な性格だったと言われる龍子は、昭和20年「爆弾散華」という作品を発表しました
洋画を学び、雑誌の挿絵で生計を立て、日本美術院を足掛かりにして、それまでにない日本画を切り開いていった川端龍子が唱えた会場芸術主義は、当時の画壇から批判を受けたそうですが、「芸術が民衆の芸術となれば成る程、良い意味の会場芸術に進むことが寧ろ当然であるべきだ」と自己の考えを突き進め、様々な葛藤を経て自己が思い描く日本画を極めたという事に、強い支持を集め、今なお高い評価を得ています・・・
感服した記念館訪問でした
和歌山市議会議員 北野 均