私は、元々幼稚園の先生で、子どもを指導する立場に居たんやけど、
例えば、子どもがシャツを前後反対に着てるのに、
「自分で着れて偉かったねぇ~」
とか、何でもかんでも、褒めれば良いと思ってる先生がたまに居た。
でもさ、間違ってるー って、叩き潰す必要はないけど、
自分で出来た事を褒めつつも、必要ならば手を貸して
白黒はっきりしてる事は、教えるのが知ってる者の義務でさ
いずれ分る事やねんし、言わなアカン事は、言わなアカンと私は思うのよ。
それと同じで、聖書の中に善悪ハッキリ書かれている事で、
悪を悪と伝えるのは、裁きじゃなく、真実を知る者の義務やと思う。
って言うても、その辺に居る人を捕まえて、
間違ってるー とか言えって言うてるんじゃなく、
自分のところに相談に来た人に対して、ちゃんと真実を伝えずに、
「主が語られるままに~」
って言うのは、愛でなく、ただの偽善やと言いたい。
神さんは、すでに語られてるんやから。
っちゅうわけで、
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神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く
ヘブル4:12
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の聖句を引用して、
「だから、御言葉の剣を使って、人を傷つけないようにしないと」
みたいな事を言われてた、まさにその時、
礼拝の中で、またこの聖句が出て来てさ
でも、今度は一部分だけでなく、その続きもあって、
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神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、
たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、
心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
ヘブル4:12
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ここで言われる 【両刃の剣】 とは、
人を斬り裂く為のものじゃなく、
イメージ的には”手術用のメス”みたいなもので、
細かい部分も、悪い患部を隅々まで そぎ落とせるものなんや。と。
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聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
第二テモテ3:16
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この間の結婚シリーズで、感じた人も多いと思うけど、
「それだけは、言わんといてーーーーっっっ」
って、御言葉に 耳を覆いたくなる事は、私も 未だにある。
確かに、真実なだけに、言われると痛いけど、
それでも、それを言うてくれる人は、ほんまに私を想ってくれてるからこそ、
言うべき事をはっきりと伝えてくれるのが、十分に伝わるし、
結局、時が経てば、あれで守られたなぁ~ってのも分かる。
だから、私自身、ほんまに苦しい時や、ほんまに答えを探してる時は、
やっぱりそう言う人の所に行くし、信頼するのは そう言う人。
それからさ、↑↑で、牧師さんの、剣の話の続きは、
病気で死んだラザロを、蘇らせた後のJesusのこの言葉。
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すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。
彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。
「ほどいてやって、帰らせなさい。」
ヨハネ11:44
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死人を生き返らせるのは、神さん
でも、生き返った後、
救われたその人を グルグル巻きに縛り付けてた布をほどくのは、
私達周りの人間の仕事やねん。
これ、私もあの日言われて初めて気がついて、
目からウロコでさ
聖書の中に書かれてる事でも、まだまだ知らん事はいっぱいあって、
御言葉を通して、罪が明らかにされた時には、
「そんな事、書いてあったんやぁっ」
って、痛い時もあるけど、
それを受け入れた時、必ず その後 御言葉によって慰めも与えられる。
神さんを、ほんまに信じて、神さんを信頼する者にとっては、
御言葉は、切り刻む為の剣じゃないねん。
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聖書はあなたに知恵を与えて
キリスト・イエスに対する信仰による救いを 受けさせることができるのです。
第二テモテ3:15
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御言葉が、人を殺すと思ってる人は、
自分の霊的位置を確認した方が良いかもよ。
救われてる