先日、読書会コミュニティ 猫町倶楽部の『聖なるズー』読書会に参加しました。
『聖なるズー』は、著者の濱野ちひろさんが、ズーと呼ばれる人々と寝食をともにして取材しながら、人間にとっての愛とは何か、暴力とは何かについて考察を重ねた著作。
ズーとはズーフィリアの略で、動物に対して恋愛感情を持ち、動物と性愛関係を結ぶ人のことです。
前回の記事「『聖なるズー』を読んで、ズーフィリアとポリアモリーについて考えた」では、ズーフィリアが言葉を使わずにどうやって動物と対等性を保ち、セックスの際に性的な合意をとるのか?について考えました。
今回は、ズーフィリアにとってセックスは恋愛感情とセットでなければならないのか?ということについて、考えていきたいと思います。
『聖なるズー』では、ズーフィリアとそれ以外――獣姦や動物虐待など――の違いが以下のように説明されています。
話題に上っていたのはズーと「ビースティ(獣姦愛好者)」、そして「ズー・サディスト(動物への性的虐待者)」の違いだ。愛情を持たず、動物とのセックスだけを目的とするビースティや、動物を苦しめること自体を楽しむズー・サディストを、ズーたちは嫌う。
これを読んで私が感じたのは、なぜ愛情を持つ必要があるのか?という疑問でした。
人間同士の関係になぞらえるなら、ズーフィリアは、人間が人間を愛して合意のもとセックスをすること。
ビースティは、人間が人間に対する愛情を持たず、セックスだけを目的とすること。
ズー・サディストは、人間が人間を性的に苦しめること自体を楽しむということに相当します。
ズー・サディストの営みは相手を傷付ける性暴力でありレイプなので、許容されるべきでないことには納得がいきます。
しかしズーフィリア達は、ビースティの“愛情を持たないセックス”をもまた嫌っているのです。
「愛情のないセックスはよくない」という規範意識がそこにはあるように見てとれます。
前回の記事では、ズーフィリア達が動物との対等性や合意を重んじる人々であるということに触れました。
とはいえ、他者との合意や対等性を大切にする時に、わざわざ”恋愛感情”を持ち出す必要があるのでしょうか。
恋愛感情がなくても相手を尊重してと対等にコミュニケーションを交わし、合意にいたることはできるのではないか、と私は思います。
これはたとえばビジネスの場においては、多くの人が日常的にやっているようなことです。
恋愛感情と性欲は別のもの。
ズーフィリアだって、動物との対等なコミュニケーションと合意があれば、性欲だけで動物とセックスしてもいいはずです。
“恋愛感情はないが対等性と合意はあるセックス”というのは、動物と人間との間には成り立たない営みなのでしょうか。
愛なきセックスを是としないところに、ズーフィリアのある意味クラシックな恋愛観が見てとれます。
ズーフィリアは、どうしてもセックスに愛がないと嫌だからこそ、動物をパートナーに選ぶのではないでしょうか。
“動物からの愛”を、ズー達はとても強く信じているように見えます。
…というよりは逆説的に、人間からの愛を信じていない、と言ったほうがいいかもしれません。
相手が人間であるかどうかよりも、裏切らずにずっと愛してくれるかどうかの方が重要。
ある意味、とても愛すること・愛されることを大切にしている、ロマンティックな人達なのだと思います。
ズーフィリア達の世界には、「アクティブ・パート」と「パッシブ・パート」という言葉があります。
アクティブ・パートはセックスにおいてペニスを挿入する側、パッシブ・パートは挿入される側(つまりは、人間の同性同士のセックスにおける「タチ」「ネコ」と似た意味です)。
そして、多くのズーは「動物が求めてきた時にしかセックスをしない」と言います。
ズーの世界では、動物に対して人間の方から性的な誘いをかけることはよくないとされているのです。
ズーフィリア達の性愛感は、誤解を恐れずにいうなら「セックスは恋愛感情とセットでなければならない」という規範意識のなかにあり、「人はセックスにおいては受け身でいることがよい」「人がセックスを相手に求めることは暴力的でよくない」という規範意識も強いように見えます。
私が『聖なるズー』を読んでいて、セックスにおいて受動的であることを善しとするような価値観のズーフィリアが、自分から能動的にセックスを求めていく人間を非難しないか、不安を感じなかったと言えば嘘になります。
ズーの中でも、アクティブ・パートの人間が非難されやすいように。
ズーフィリアに獣姦や動物虐待を嫌う人が多いのは、ポリアモリーに浮気や不倫を嫌う人が多いのと似ています。
世間では雑に同一視されがちだからこそ、違いを明確にして、これは他者を傷付ける営みではない、ということを明確にしたいのでしょう。
ズーフィリアの性愛規範がこれほど厳格なのは、ポリアモリー達が感じる「複数人と性愛関係を結ぶなんてふしだらで浮気や不倫と同じだ、と思われないようにしなければ」「ポリアモリーだからこそクリーンに振る舞わなければ」という圧力と同じものが、彼らズーにものしかかっていることの表れではないでしょうか。
ズーフィリアは動物虐待と区別するために、愛があるんだ、対等で合意あるパートナーシップなんだ、と主張する。
ポリアモリーが浮気や不倫と区別するために、全員の合意があるんだ、と言うのと同じ構図です。
ズー達が「聖なるズー」になろうとするように、ポリアモリー達もまた「聖なるポリアモリー」になろうとしているように思えます。
マイノリティとして、マジョリティから非難を受けやすい立場だからこそ、ズーフィリアであってもポリアモリーであっても、性愛やパートナーシップのあり方を自ら厳しく律することで社会に受け入れられようとする、という意図がそこにはあるといえます。
私個人は、いろいろな動物とセックスフレンドになるズーフィリアがいたっていいし、性的に奔放なポリアモリーがいたっていいと思います。
けれど、世間の風当たりはまだまだ強い。
だからズーフィリアにせよポリアモリーにせよ、最初に受ける排除や異端視、病理化などの取り扱いに対して「クリーンなイメージの啓蒙」「セクシュアリティとしての啓蒙」が図られるのでしょう。
ヤリチンのズーフィリアやビッチのポリアモリーが受容されるとしても、それは「聖なるズー」「聖なるポリアモリー」が受容された後の話になるのかもしれません。
「セックスや恋愛はこうあるべき」という性愛規範の根深さ、それを緩めていくことの難しさが、『聖なるズー』には描かれていると感じました。