以前、読書会コミュニティ猫町倶楽部の『聖なるズー』読書会に参加しました。

『聖なるズー』は、著者の濱野ちひろさんが、ズーと呼ばれる人々を取材して寝食をともにしながら、人間にとっての愛とは何か・暴力とは何かについての考察を重ねた著作。

ズーとはズーフィリアの略で、動物に恋愛感情をもち、動物と性愛関係を結ぶことです。
 

この本を読むにあたって私の頭に浮かんだのは、「どうやって動物とコミュニケーションをとるのだろう?特に、性的同意はどうするの?」という疑問でした。

ズーフィリアは、往々にして動物愛護団体から「動物虐待だ」と非難されます。

そこにあるのは、「人間と動物の間には性的な合意が成立する/しない」という前提の違いだといえます。

性的な合意がとれると思うからこそ、ズーは自分たちの行為が動物虐待ではないと主張するし、合意は成り立たないと思うからこそ、動物愛護団体はズーを糾弾するのです。

ポリアモリーである私にとって、パートナーシップにおいて何より大切なのは関係者全員の合意です。

その合意は基本的に、言葉でのコミュニケーションによって築かれる必要があると考えています。

しかしズーのひとりミヒャエルは、言葉が通じなくても、動物をよく見ていればしたいことが分かるしコミュニケーションもとれる、と言うのです。
 

「人間とのセックスが嫌なのは、いつも裏になにか別の意味があるところだ。人間とのセックスは単純じゃないだろう。人間は思っていることを隠すし、フィルターに通すから」


要するに、「イヤよイヤよも好きのうち」みたいに本音と建前が乖離していては、コミュニケーションが複雑になってしまって合意がうまくいかないということなのでしょう。

そして、長年パートナーから性暴力を受けてきた経験のある著者もまた、言葉による合意の難しさを綴っています。

 

言葉での合意さえあれば性暴力ではないと、いったいなぜ言えるだろうか。言葉を使う私たちは、言葉を重視すればするほどきっと罠にはまる。言葉は、身体からも精神からも離れたところにあるものだ。それは便利な道具だが、私たち自身のすべての瞬間を表現しきれない。言葉が織りなす粗い編み目から抜け落ちるものは、あまりにも多い。


ポリアモリーとして言葉による合意を重視してきた私は、この「言葉から抜け落ちるものは多い」という意見に足元を掬われる思いがしました。

むしろ私たち人間は言葉を獲得したことによって、嘘をついたり本音と建前を使い分けるようになってしまった、といえるのかもしれません(ポリアモリーが正直さやオープンであることを尊ぶのも、それが多くの人々にとっては難しいことだからだと思います)。

コミュニケーションの手段として言葉を使うか使わないかの違いはあれど「合意を大切にする」という点では共通しているズーフィリアとポリアモリー。
そしてそれは、合意を成立させるために「対等性を大切にする」、ということでもあります。
ズー達は「人間と動物は対等になれる」と信じていることが本からは伝わってきます。

パートナーからの性暴力によって、言葉を交わしているにも関わらず対等でもなければ合意もないセックスで傷つき続けてきた著者の”対等性”についての考えは、私の心に刺さるものでした。
 
ズーたちは種の違いを乗り越え、パートナーとの対等性を叶えようとする。
人間と動物が対等な関係を築くなんて、そもそもあり得ないと考える人は多いかもしれない。だがズーたちを知って、少なくとも私の意見は逆転した。人間と人間とが対等であるほうが、よほど難しいと。

相手が人間であれ動物であれ、他者と対等であることはかくも困難です。
たとえ対等な関係だったとしても、言葉による合意には限界がある。
とはいえ、私たち人間が合意を目指すときには、言葉に頼らざるを得ないのも事実です。

一体、合意とは何でしょうか?
それは本当に言葉によらずに(あるいは言葉さえあれば)成立するものなのでしょうか。

ズーフィリアとポリアモリーという性愛のあり方は、お互いに「合意とは何か」という問いを突きつけあうもののように思えます。