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渡鹿野島遊び2016

2016年夏、渡鹿野島で女遊び(泊まり)をした際の記録。

 二〇一六年七月十三日、水曜日。

 午後四時二分に、私は鵜方駅に着いた。昼に東京を出て、新幹線二時間、そして近鉄線に乗りかえてさらに二時間。

 

 この四時間、ただ電車を乗り継いだだけで、私は一度も改札を出ず、どこにも寄り道をしていない。

 夕方に渡鹿野島に着いてから、例の遣り手婆さんとの交渉が待ち受けているため、それから島の娼婦と一夜を過ごすことも考えられるため、出来るかぎり体力と神経の消耗を避けたかったのである。乗りかえの桑名駅の構内にあったコンビニにすら立ち寄らないほどの、勤勉さであった。

 

 鵜方駅から三重交通バスの「安乗」行に乗り、二十分ほど。「渡鹿野島対岸」のバス停に到着した。

 

 バス停で下りたのは、私一人だけであった。目の前には海がひらけ、その先には渡鹿野島の旅館の建物が立ち並んでいる風景が、手にとるように見える。此処から渡り船でわずか三分、という距離もうなずけた。

 

 バス停の至近に、渡船場がある。小屋といってよい小さな建物で、中が簡素な待合室のようになっている。この待合室に人の姿があると、島の岸に停泊している船の運転士が目視し、こちらに向けて船を発進させてくれるそうである。だが、私の場合それは必要なく、運よく船がこちらに停まっており、ちょうど島へむけて出発するタイミングであった。

 

 私が船に乗りこむと、すでに先客が三人。いずれも五十歳前後くらいの女性だ。

(”婆さん”というほどの年齢ではないが…。この人たちが、置屋の女の子を取り仕切る遣り手なのではないか…?)

 

 三人の女性は、島の外で買物でも済ませてきたのか大きな袋を手にしていて、何やら楽しげに世間話をしている。一人は初夏の日差しを避けるためか帽子をかぶっているけれど、帽子を目深にかぶって人相を隠しているというような、秘密めいた感じはとくになさそうだ。

 もう少し、この三人の様子を観察していたかったが、そんな暇もなく、すぐに船は出発した。梅雨の真っ只中、といっていい時候だが、島の空はあくまで、晴れている。

 

 まだ暮れる気配の全くない陽が水面に映り、輝いている。船上の私は海の美しさに目を細めたいところだが、そんな余裕はなく、心は落ち着かなかった。

 

 

 いわゆる「風俗店」と同じものを求めて渡鹿野島に行った男性の体験談としては、

「四万の泊まりを頼んでみたけど、三十代後半の見た目がイマイチな女性が来て、正直、微妙だったなァ…。同じ四万払うなら、都会の風俗やデリヘルの方が良かったよ…」

 くらいの感想で終わってしまうだろう。しかし私が行った場合、その感想はだいぶ変わってくるのではないか、と期待された。


(渡鹿野に行ってよかった!相手の女の子も喜んでくれてたみたいだし、最高の夜だった!)

 と、期待を裏切らない一夜を私は過ごせるのか?

  いや、あるいは、ネットの体験談にあるように、「もう疲れた」と言ってすぐに寝入りたがる女性と出くわしてしまい、女性と会話する余裕すらなく、酷い夜を過ごすことになるのか。

 

 または、さきほど述べたように島の売春産業自体が衰退しきっていて、島の娼婦の存在すら今は既に無い可能性も考えられる。その場合、島の旅館に一泊して空虚な夜を過ごし、そのまま帰宅することになるわけだ。その点は、もはや「賭け」であった。


(まあ、失敗してイタい目に遭ったとしても、文章を書く上でネタにすればいいや)

 私は自分の運を試すようなつもりで、住んでいる東京から三重までの行き方を調べはじめた。二〇一六年七月初旬のことであった。



「その島の噂」 了


 

 やや個人的な話になるが、私は風俗で働いているような女性を逆に楽しませるのが好き、という変わった嗜好の持ち主であった。風俗店に客として行ってただサービスを受けるのではなく、女の子との会話のコミュニケーションにとにかく気をつかい、


(今日はいいお客さんが来た…。仕事ということを忘れるくらい、楽しかった…)

 女の子に思ってもらうことが、私の無上の喜びであった。二万円ほど払って入店したにもかかわらず、女の子の肩をひたすらマッサージするだけで時間を過ごしたり、誕生日ケーキを持参して女の子の誕生日を祝うだけで何の行為もすることなく帰ったこともあるような、「変わり者」である。

 

 おそらく、私が二十代の頃水商売に携わっていたために、夜の仕事をしている女性にどこか親近感が湧いてしまい、サービスを受ける「客」になりきれないのだろう。

 あるいは、女性に対し精神的に「尽くす」のが、私という男の「愛のかたち」なのかもしれなかった。


 そんな趣味をもつ私が渡鹿野島に行ったら、かなり楽しめるのではないか。島に住む女性と一晩共に過ごすとなれば、決して一晩中性行為をしつづけているわけではないから、会話をしたり蒲団の中で寄り添ったりする時間もあるだろう。そういう時間に、一夜かぎりの娼婦の「心」が少しでも満たされるように気くばりするのが、私にとっての最高の愉しみになるはずだ。

  ただ、渡鹿野島に関する情報で、必ずといっていいほど触れられているのが、

「島の遣り手(やりて)婆さん」

 の強烈な存在である。

 

 渡鹿野島は、志摩半島から水上を三分ほど渡り船でわたったところにあるのだが、男性一人、あるいは数人で渡り船に乗船すると、島に着いてまもなく、一人の婆さんがどこからともなくあらわれて近寄ってくる。

 

 帽子を目深にかぶった婆さんは声をひそませ、

「兄ちゃんたちは、遊びで来たんか?」

 とたずねてくる。そうだ、とこたえると、


「泊まりで四万、ショートは二万。泊まりは夜十時ころから朝までずっと部屋で女の子と過ごせる。ショートは五十分だけ。ショートだと、女の子と話す間もなくすぐプレイすることになるから、いまいちかもしれんけどね…」

 と、島の女遊びのシステムについて教え、勧誘してくる。男性が泊まりかショートどちらかを頼むと、

「じゃあ、女の子見せるから、ついておいで」

 と言って、さっさと歩き出す。


 婆さんは島の娼婦を斡旋する「置屋」という店の主で、そこに男性客を案内し、娼婦を実際に見せて、好みの女性を選ばせるのだ。仮にその置屋で好みの女の子が見つからなかったとしても、島には数軒、置屋が存在するため、他の店を当たってみるという方法もある。

 ただ、島の置屋にはそれぞれ派閥があるので、

「気に入る女の子いないから、他あたってみるよ」

 と気やすく言って婆さんのプライドを傷つけたりすると、小さな島の情報網の中ですぐに連絡が伝わってしまい、他の置屋に行ってみても断られる、なんていうこともあるそうだ。

 

 島に遊びに行った男性客が一夜を楽しめるかどうかは、その時いい女の子を選べるか否かにかかっているわけだが、二〇一六年現在の島にまだ、選べるだけの人数の女の子が居るのかは、かなり疑わしかった。


 しかし、こうした「遣り手(やりて)婆さん」の独特な存在や、好みの女の子と朝まで一緒に過ごせるという遊びの仕組みは、私の好奇心を大いに刺激し、「この島に一度だけでいいから行ってみたい」という気持ちにさせた。島に上陸した瞬間、はたして婆さんが声をかけてくるのかどうかという緊迫感が想像できたし、女の子が実際に住むアパートの居室に行って朝まで共に過ごす、というシステムも私の性的な嗜好には合っていた。


 

 渡鹿野島は、三重県の志摩半島ぞいに浮かぶ、ハートの型をした小さな島である。島内を半日も歩きまわれば、全ての風景をカメラでおさめられるくらいの小さな島だ。

 

 江戸時代に物資運搬の船や漁師の船が停泊するための島として栄え、自然な流れで、船乗りの男性を楽しませるような娼婦が島に増えた。いつしか売春がこの島の「主要産業」となり、その流れは第二次大戦後までつづいた。「島」という地理的な優位もあって、戦後の警察の取締りも巧妙に掻い潜ってきてしまったようだ。

 

 バブル期のころまでは、

「男性客がコンパニオンや娼婦をもとめて遊びにくる、一風変わった観光地」

 として繁栄しつづけた。しかし時代の変遷とともに、島の売春と、それにともなったホテル・旅館業も衰退し、島自体が過疎化している傾向があるらしく、2016年の現在では島に娼婦が居るのかどうかも、外からだと(とくに関東に住んでいる人間からだと)判然としない。


 ネットでいろいろ検索してみても、渡鹿野島を実際に訪れた人による体験談は、2012年頃までで絶えてしまっている。

 

 2012年でも既に、島の娼婦の数は激減していて、若い女性は全くおらず、三十代四十代ばかりだったそうである。おまけに、夜は大きなイビキをかく娼婦や、接客する気が全く無くすぐに寝入ろうとする娼婦など、あまり質(たち)のよくない女性に出くわしてしまってさんざんな目に遭った、という体験談が多かった。


 2015年のきわめて最近の体験談も一応は見出せたものの、書き手の男性はとくに女遊びをする気はなく、島に上陸してただ風景を写真におさめただけ、という記事しかなく、本当に知りたい〈核心〉の情報が得られなかった。