思い出の名城・城址11 | 心のままに

心のままに

ゆっくり、のんびり、思い出づくり

名城・城址の11回目

◎桑名城址・三重県(2014年1月訪問)

徳川四天王の一人、本多忠勝の居城、本多氏が姫路城に移ってからは松平氏が藩主を務めた。

※忠勝の孫である忠刻と徳川家康の孫娘である千姫はこの城で結婚式を挙げています。

 

城跡には当時の建物はなく、石垣、壕が残るのみで「桑名城址九華公園」として整備されている。

本多忠勝像と辰巳櫓跡など。

 

 

 

市内に当時の石垣が残る。

 

外見だけ復元された二層櫓の「蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)」、今は国土交通省水門統合管理所の建物となっている。

 

この日はお城の北側にある東海道・七里の渡し跡にも寄ってみました。

 

※「家康に過ぎたるものは二つあり、唐の頭に本多平八」

といわれた本多平八とは本多忠勝のこと。

生涯に57回の合戦に参加しながら、

一度も傷を負わなかったという伝説が残っていて、

まさに戦国時代最強の武士。

            (楽天の社長・三木谷浩史さんは忠勝の子孫の1人

 

※唐の頭(からのかしら)・・チベット高原に生息する犛牛(ヤク)の尾の毛を飾り付けた兜のことで、中国から伝わったのでこの名がついた。

雨露を防ぎ、威嚇効果もあることから、兜に動物の毛を被せることが、当時大名の間で流行していた。

 

◎松坂城址・三重県(2016年1月訪問)

天正16年(1588)に蒲生氏郷が築城し、当時は3層の天守をもち、壕の総延長は2kmに及ぶという堅固な城だったが、蒲生氏が会津に転封された後は,服部一忠,古田重勝,古田重治が城主となり、その後は紀州藩の代官役所が置かれた。

 

ここも当時の建物は残っておらず、近江の穴太衆(あのうしゅう)によって築かれた豪壮な高石垣が残っている。

 

 

 

 

隠居丸跡には、松阪出身の江戸時代の国学者・本居宣長の旧宅「鈴屋(すずのや)」が移築されている。

 

御城番屋敷にも寄りました。

松坂城を警護する「松坂御城番」という役職の武士とその家族が住んだ武士の組屋敷。

今も子孫が住み、維持管理を行っている。現存する江戸時代の武家屋敷でも最大規模を誇る貴重な建造物で、平成16年に重要文化財に指定された。

 

◎伊賀上野城・三重県(2013年1月訪問)

天正13年(1585)に筒井定次が築いたが、後に改易となる。

その後、家康が大坂の豊臣方との決戦に備えるため、築城の名手でもある藤堂高虎を宇和島から伊賀の国10万石の他、全部で22万石を与え国替えさせた。

五層の天守は、建設中の慶長17年(1612)9月2日、当地を襲った大暴風で倒壊し、天守がないまま幕末まで続いた。

※現在の復興天守は当地選出の代議士、川崎克が多くの支援者の協力を得ながら私財を投じて藤堂氏が造った天守台に建てたもの。

 

高さ約30mの高石垣は大阪城の高石垣と並んで日本一の高さ。

 

天守内では、藤堂高虎の愛用品などを展示。

 

天井には、横山大観をはじめ名士の色紙46点の絵が嵌め込んである。

※真ん中の月を描いた絵が横山大観作。

 

忍者の里らしく天守内には忍者が・・(もっと上手に隠れて!)

 

この日、家を出るときは雲一つない良いお天気でしたが、

盆地の伊賀上野市に着くと雲が多く、

ついに雪もチラチラ降ってきて、寒い散策となりました。