祈り・知覧特攻平和会館 | 心のままに

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ゆっくり、のんびり、思い出づくり

かつて日本が英米に宣戦布告をしたのは、昭和16年12月8日でした。

この時、悲惨極まる結末を迎えることは誰も想像できなかったのでしょうか。(思っていても、言えない雰囲気があったと思いますが)

 

写真は鹿児島県南九州市知覧町にある「知覧特攻平和会館」前にある、特攻勇士の像「とこしえに」です。

 

「知覧特攻平和会館」には、特攻という人類史上類のない作戦で、爆弾搭載の飛行機と共に、突撃を敢行した多くの特攻隊員の遺品や関係資料が約4500点展示されています(どれも涙無くして見る事はできません)館内は撮影不可でしたが、戦争の悲惨さや平和の有難さをもっと多くの人に知ってもらう為に、フラッシュ無しの撮影は許可した方が良いように思いました。

 

すぐ近くにある母の像「安らかに」

 

特攻平和観音堂(ここに続くまっすぐな参道はかつての滑走路です)

 

三角兵舎・・特攻隊員の宿舎として松林の中に半地下壕を造り、屋根には杉の幼木を被せ擬装をした。

出撃前夜の隊員は、ここでお酒を酌み交わしながら隊歌を歌い、裸電球の下で遺書や別れの手紙を書いた。

 

 

 

父母が  頭(かしら)掻き撫で  幸(さ)くあれて

 

言ひし言葉(けとば)ぜ  忘れかねつる


           丈部稲麻呂(万葉集)巻20-4346

 

<意味>
別れの時に父母が、私の頭を撫で回しながら、「幸くあれ(無事で幸運でいられますように)」と言った言葉が忘れられない。

 

防人として九州へ向かうように命じられた作者は、別れの時に両親に挨拶をしたようです。 

その時両親は、愛おしい我が子の頭を撫で回しながら、胸が押し潰されるような思いで「幸せであるように」「無事に故郷へ帰って来ますように」と涙ながらに何度も言ったのでしょう。

 

 生きて再び会える保証もない任務で、遠い未知の地へ旅立つ我が子を見送る親の心は、あふれる涙となり、その事が作者には大切な、大切な思い出となった事でしょう。

 親の涙を見ることは辛く、心に重く残る事ですが、そうした親の無償の愛こそがしっかりと生きていく勇気につながるのかもしれません。