神坂峠は、信濃国の伊那郡と美濃国の恵那郡(木曽谷)との境であったが、東山道(今の中山道)の交通の要所であり一番の難所でした。
その険しい道程から、当時は荒ぶる神の坐す峠として「神の御坂」と呼ばれていました。
神坂峠の近くには、中山道の有名な宿場町がいくつか残り、かつての賑わいも想像できます。
馬篭宿から見た恵那山。
中山道 木曽路十一宿場の内の馬篭宿。
当時の旅人達はどのような用事で、どのような思いで、この坂道を上ったのでしょう。
すぐ隣には妻籠宿がありますね。
ちはやふる 神のみ坂に 幣奉り
斎(いはふ)命は 母父(おもちち)がため
神人部子忍男(万葉集)巻20-4402
<意味>
猛々しい神のみ坂に幣を捧げ、我が命が無事であれと祈るのも、母や父の為なのです。
天平勝宝7年(755)信濃の国に住んでいた作者は、防人として徴兵され、同じように徴兵された人たちと一緒に、海抜1,600mほどの神坂峠を越えました。
古くから、通る峠や難所では儀礼として幣を捧げ、その土地の神の怒りを鎮めると共に、道中の安全を祈願する風習がありました。
彼は勿論、身の安全を祈ったのですが、それは自分を頼りにして首を長くして帰りを待っているだろう年老いた両親の為だと言っています。
彼の祈りは単に儀礼ではなく、心からの祈りだったのでしょう。
防人としての任務は3年と決められていましたが、延長される事もあり、また、独身者などは任務が終了しても故郷へ帰らず、任地近くや、旅の途中の地に住み着いた者もいたようです。
一番悲惨なのは、旅の途中で病に倒れ、誰に知られる事もなく亡くなった者もいた事です。
※当時は母系社会なので、両親の事を今のように「父母」と言わず、母を先に書き「母父(おもちち)」と言うことも多かったようです。