「パートタイム・ラヴァー」第9回 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 

 少しぬるめのお湯に浸かっているうちに、ゆっくりと身体に熱が戻ってきた。入浴剤のラベンダーの香りが鼻腔をくすぐって、そのまま眠ってしまいそうなほどリラックスさせてくれた。
 一人で入るには大きすぎるバスタブに身体を横たえて、アンティークっぽいデザインのクリスタルのシャンデリアをボーっと見詰めていた。
 バスルームにこんな豪華な照明がある意味はまるでわからない。たぶん、このホテルで一番高い部屋だから、調度類も無意味に豪華というだけのことだろう。バスタブはスイッチ一つでジャグジーとジェットバスになるし、壁にはテレビまで埋め込んであった。
 テレビをつけるとプロ野球の中継をやっていた。片方は日本ハム・ファイターズ、もう片方は緑色のユニフォームのよく知らないチームだった。
 日本シリーズって終わったんじゃなかったっけ?
 真奈のお祖父ちゃんがそんな話をしていたような記憶がある。もっとも、スポーツはあまり(というか、まったく)わからないので確かなことは言えない。やっているのはどうやらアジア・シリーズのようで、相手は台湾のチームらしいというのだけはわかった。
 チャンネルを変えようとしたら、リモコンが見当たらなかった。仕方ないのでそのまま野球を眺めることにした。SHINJOが出ていないのがつまらないけど、文句を言っても始まらない。
 試合は緊迫した投手戦の様相(とアナウンサーが言ってる)を見せていた。スコアボードにはずらりとゼロが並んでいる。先発のダルヴィッシュ(とアナウンサーが言ってる)がワンナウト一、二塁のピンチを連続三振で切り抜けたところまで見て、テレビを消した。
 バスタブの中で身体を滑らせると、鼻の下のあたりまでお湯に沈んだ。そのままブクブクと子供っぽく息を吐いてみる。目の前で泡が弾けて小さな飛沫が顔に当たる。二十分以上も浸かったままなので、顔を濡らしているのがお湯なのか汗なのか、区別がつかない。
 ……やりすぎちゃったかなあ。
 声には出さずに一人ごちた。
 デートの締め括りに”どこか二人っきりになれるところへ行く”のは予定に入っていた。恭吾がそう言ったのだ。それがホテルへ行くことの婉曲な表現であることくらい、あたしにだってわかる。
 そうは言っても、さすがの(?)恭吾もラブホテルに入るつもりはなかったらしかった。ここの駐車場に乗り入れてからどこかにキャンセルの電話をしていたし、もしそのつもりだったなら、もっと目立たないクルマを選んだはずだ。見るからに薄っぺらいエレガントな造りとシルバーのAMGメルセデスは、B系ばかりが集まるクラブのパーティに紛れ込んだタキシードのように場違いだった。
 そ知らぬふりをしていたけど、あたしを見る恭吾の目には明らかな困惑が浮かんでいた。
 もう一度、ブクブクと息を吐いてみた。
 予定を狂わせてまで恭吾をラブホテルに誘って、自分が何をしようとしているのか、自分でもわからなくなり始めていた。

 

 恭吾はあたしがホテルに入っても恥ずかしがったり、逆に興味津々という素振りを見せないことが不思議なようだった。
 白状してしまうと、ラブホテルに足を踏み入れるのは初めてじゃない。去年の夏、ママの事件のときに当時の彼と入ったことがあるのだ。ただ、その理由はあんまり――というかまったく――色っぽいものじゃなかった。むしろ苦い思い出と言っていい。
 ママが犯した殺人事件の証拠を抹消しようとしていたあたしは、それが収められたある会社のサーバに対してクラッキングを仕掛けようとしていた。
 そのためにいろいろと下準備をしていたのだけれど、クラッキングの実行役を買って出てくれた彼が回線からアシがつくのは避けたほうがいいと言い出して、急遽、どこかネットにつなげそうなところを探すことになった。
 それほど選択肢はなかった。ネットカフェの回線はログが残るので下手するとそれだけで警察沙汰だし、普通のホテルでは宿泊名簿から辿られてしまう。無線回線は通信速度の問題があった。
 そういうわけで、ブロードバンド回線を提供してくれるところで、なおかつ、こっちの名前などを記録に残さなくてもいいところと言えばラブホテルくらいしかなかったのだ。
 そんな理由があっても、二人でホテルに入るのはドキドキものだった。
 幸いにもクラッキングは上手くいった。相手のサーバのハードディスクをクラッシュさせるのには一時間程度しかかからなかった。
 問題はそのあとだった。
 付き合いだしてから二年以上経っていたのにようやくキスしただけの二人にとって、そこは気まずさしかない空間だった。ただエッチするためだけという感じのケバケバしい内装で、いかにも怪しそうなグッズが並んだ自動販売機まであった。
 しばらくお互いの顔を見合わせて、我慢比べのように押し黙っていた。
 あたしは真剣に彼のことが好きだった。誰に似てるかと訊かれたら”キレキャラで売り出してる芸人”としか答えられない人だったので、真奈にはあとからずいぶん審美眼を疑われたけれど、もともとあたしは外見にはそれほどウェイトを置いていない。
 彼とホテルへ行くことを決めたとき、「そうなったらなったでいいや」とさえ思っていた。
 でも、そうはならなかった。彼はやれやれというふうに照れ笑いを浮かべた。
「……出よっか?」
 そう言って機材を片付け始めた。あたしも「そうだね」と言ってそれを手伝った。ホテルを出て、機材を積み込んだ彼のCR-Xで借りていたマンスリー・マンションまで送ってもらった。彼はいつもと同じように、あたしの「上がってく?」という誘いを断って帰っていった。
 彼があたしを好きだったことは自信を持って言える。でも、彼は自分の愛情を注ぐだけで、あたしには何も求めようとしなかった。
 それが本当の意味での愛情だったのかどうかは、未だによくわからない。その彼とは、事件に巻き込んでしまったことで彼のお母さんの逆鱗に触れて、付き合えなくなってしまった。
 お別れの言葉を伝えるのがつらくて、さよならを手紙で済ませてしまったことにいくらかの後悔は残っている。でも、会えば自分の心が折れてしまうことはわかっていた。
 結局、あれから一度も彼とは会っていない。

 

 お風呂から上がって、脱衣室にあるドレッサーの前に座った。
 メイクは完全に落ちてしまっていた。もう一度やり直そうかと思ったけど、ここにいる間はスッピンでも構わないだろう。同じ理由でウィッグも壁のフックに掛けたままにしておいた。
 髪を拭いてドライヤーで乾かした。

 伸ばしていたときはお手入れも大変だったけど、短くすると乾くのもすぐだし、その気になれば手櫛でセットできてしまう。切ったその日はあるべきものがないことにひどく不安を覚えた。でも、慣れてしまうとショートも悪くなかった。今でこそ色気づいてセミロングにしてるけど、ちょっと前まで真奈が頑なに伸ばそうとしなかった理由がなんとなく理解できる。
 歯を磨こうとシンクの周りを見回した。使い捨ての歯ブラシや消毒済みの帯がついたコップがキチンと並べてある。こういうところは普通のホテルと違わない。
 クローゼットに架けてあったバスローブを羽織ってみた。
 姿見に映ったあたしは、自分でもビックリするほど子供っぽかった。
 サイズが合ってないわけじゃなかった。単に似合わないだけだ。おかげで精一杯背伸びして悪ぶって見せている小娘にしか見えない。
 諦めてバスローブを脱いだ。代わりに大判のバスタオルを身体に巻いた。ちょっとしたキャミソール・ドレスくらいのちょうどいい長さだった。
 大きく深呼吸して、脱衣室のドアを開けた。
 部屋の灯りは落とされていた。
 南国のリゾートホテルをイメージしたような白い壁に水槽の蒼い光が映り込んでいる。部屋の真ん中にはキングサイズのベッド。その周りを囲むようにヤシの木のような観葉植物が飾ってある。インテリアもどっちかというと南国風で、小物にもバンブーのものが多い。
 人の気配は部屋の隅のほうからした。
「恭吾?」
「……ああ。上がったのか」
 窓際に置かれたソファに恭吾はいた。灯りがついて、眩しそうに目を細めている。季節感のないタンクトップとハーフパンツという格好だけど、暖房が効いているので寒くはなさそうだった。着ていた服はあたしを運河から助け上げるときに濡れていて、今は少しでも乾かすためにハンガーに架けて干してある。
「野球見てるかと思ったのに」
「ホークスが出てない大会に興味はないよ。――クルマから着替えは持ってこなかったのか?」
 あたしの格好を見て、恭吾は怪訝そうな顔をした。
「汗が引く前に服を着るのが嫌いなの。隣、座っていい?」
 この部屋には他に椅子はなかった。恭吾はあたしが座れる分のスペースを空けてくれた。
 有料の冷蔵庫からモルツの缶を引き抜いて、恭吾のすぐ隣に腰を下ろした。プルタブを押し開けてビールを飲んだ。
 チラリと見ると恭吾は少しだけ渋い顔をしていた。目の前で未成年が飲酒しているせいか、それとも、あたしの脚が自分の脚に触れるほど近くに座ったせいかは、表情からは窺い知れない。
 ゆっくりと、深く息を吐いた。
「恭吾って、付き合ってる人とかいるの?」
「恋人って意味か?」
「そう」
「いない」
 即答だった。真奈といるときのような仏頂面になるかと思ってたけど、意外なほど穏やかな表情だった。
「好きな人は?」
「好きっていうのがどの程度かによるな。恋人にしたいほど、という意味ならやっぱりいない」
「ホント?」
「嘘ついてどうするんだ。本当さ」
「じゃあ、真奈はどうなの?」
「あいつはそういう対象じゃないよ。何せ、ランドセルを背負ってるころから知ってるんだ」
「そうなの?」
「背負ってるっていうのは比喩だけどな。六年生のときには、ランドセルを背負える体格じゃなかったから」
「でも、真奈は恭吾のことが好きだよ?」
 恭吾は可笑しそうに目を細めた。
「あいつが? バンドのギターの彼と上手くいってると聞いてるが」
「今はね。でも、真奈がホントに好きなのは恭吾だと思う。初恋の相手だって言ってたし。お父さんのこととかあって、フクザツになっちゃってるんだろうけど」
「光栄の至りだね」
 あたしが言ったことを信じていないわけじゃない。拒絶するわけでもない。なのに、恭吾の目には諦めに似た光があった。
「いずれにしても今は彼氏がいるわけだし、見た限りじゃ上手くいってるようだ。俺としては、このまま続いてくれることを願うよ」
「ホント?」
「だから、嘘ついてどうするんだ」
「……だったら、あたしが恭吾の彼女に立候補してもいいってことだよね?」
 恭吾は返事をしなかった。
 モルツに手を伸ばした。一口飲んで、もう一度、大きく深呼吸した。必死で平静を装っても、心臓が早鐘のように激しく打ち続けている。
 身体を起こして、恭吾の身体のほうに向き直った。タンクトップから剥き出しになった肩は筋肉でゴツゴツしている。服の上からじゃわからなかったけど、胸板もすごく厚い。首から上と下で別の人のようだ。
 これまでで一番近くで恭吾の顔を見た。左の眉の中に短い傷がある。ボクシングの試合で切った痕だろうか。瞳の色が少し薄いのも初めて知った。すべすべしてるような口の周りにちゃんとヒゲが生えている。やっぱり男の人なんだなと思った。
 身体に巻いたタオルの胸元に手を掛けた。そこのわずかな引っ掛かりをはずすだけで、タオルはあたしの身体から滑り落ちてしまう。
「驚いたな。まるで一昔前の映画みたいだ」
「茶化さないで」
 恭吾は薄く笑った。
 彼の手がゆっくりと伸びてきた。あたしの頬に優しく触れて、そのまま髪をかきあげるように耳を覆った。それは一段とゆっくり首筋に降りていって、もう一度、顎の線に沿って頬に戻ってきた。親指が慈しむような優しさであたしの唇に触れた。
 恭吾はジッとあたしの目を覗き込んだ。
 あたしは静かに目を閉じた。