「パートタイム・ラヴァー」第8回 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
 日曜日の夕方のキャナルシティはカップルや観光客、あたしとあんまり変わらないくらいの男の子や女の子たち、それが入り混じったグループ、その他いろんな人たちでごった返していた。
 一番下のオープンフロア、運河沿いの広場(スターコートという名前があるのを初めて知った)にあたしたちはいた。
 切り立った渓谷のように高い建物に囲まれているキャナルの中で、ここともう一ヶ所だけ、夕日の名残りが外から差し込んでくる。間欠泉のように床の小さな穴から噴き出す噴水の周りで、子供たちがはしゃぎまわっているのが微笑ましい。
「でもさ、福岡タワーにマリノア、志賀島、それにキャナル。博多湾岸デートコースの王道だよね」
「昔はそれにベイサイドプレイスが入ってたもんだが、つぶれたからな」
「あそこのアクアリウム、けっこう好きだったんだよね。おっきなウミガメが泳いでてさ」
「まだ、あることはあるんだがな」

 恭吾は少し残念そうだった。たぶん、ベイサイドの全盛期にはそこで奥さんと――ひょっとしたらそれ以外とも――デートしてたんだろう。
「ところでさ、恭吾ってばこんなとこ歩いてて大丈夫なの? 職場の人とかに見られたらヤバイんじゃない?」
「……そう思うんなら、せめて腕を組むのは勘弁してくれないか?」
「やだよ~だ。だってはぐれたら困るもん。見て見て、もうクリスマスのツリーが出てるよ」
 運河沿いのスペースには、気が早いことにもうクリスマスの飾り付けがされていた。ツリーを模ったような背の高い白い円錐の周りに、レースの布を纏ったようにイルミネーションがあしらわれている。ほかにもミニツリーや馬車を模ったものなんかがあちこちにおかれていた。本格的に点灯されるようになれば、さぞクリスマスムード一色になるんだろう。
「まだ十一月になったばかりなのにね」
「学生のとき、タイから来た留学生に「日本のクリスマスは二ヵ月あるんだよ」って言ったら真に受けられたことがあるよ。そもそも、キリスト教徒でもないのに何がめでたいんだか」
「あんまりそういうのには乗っからないほう?」
「十二月は仏教徒になることにしてる」
「そんな感じだよね、恭吾って」
 とは言っても、去年のクリスマスは真奈の「どーせ一緒に過ごす相手なんかいないんでしょ?」という失礼極まりない一言を真に受けて、あたしと真奈を食事に連れて行ってくれている。
 お店のセレクトはあたしたちに任せると恭吾は言った。
 せっかくなんだから少しはムードのあるところにすればいいのに、真奈が行きたいと言い張ったのは大橋にあるモツ鍋屋だった。
 そこは予約なしでは入れないという有名なお店で、モツ鍋は確かにとても美味しかった。恭吾も真奈の前にしては珍しく表情をほころばせていた。ただ、鍋奉行っぷりを如何なく発揮する真奈を見ながら「……こりゃ当分、色っぽい展開はないな」とも思ったけど。
 運河沿いにオーパのほうへ歩いていると、不意に恭吾が真顔に戻った。携帯電話のディスプレイを確認すると、目顔で「ちょっと待って」と合図して電話に出た。
「――ああ。こっちは異常なし。そっちの動きは?」
 その間、あたしは運河の反対側、グランド・ハイアット・ホテルに繋がってる橋の上で恭吾を待っていた。
 運河の向こう側の大きなガラスに、あたしの立ち姿がうっすらと映っていた。子供のときからクラシックバレエと水泳をやっていたおかげで、姿勢の良さにはちょっとした自信がある。本職のモデルのようにはいかなくても、それなりに見栄えはするはずだ。
 それを見せたい相手は、こっちに背を向けて話し込んでいた。こんなところで一人上手をやっている自分がバカみたいに思えてきた。

 さっきまで薄明るかったのに、あっという間に空は濃い蒼色に変わっていた。切り立った崖のようにせり上がっていく建物のせいで、まるでそこだけ空を切り取ったように見える。
 日が落ちて灯りが点り始めると、キャナルシティはお昼の柔らかでのどかな雰囲気から途端に佇まいを変える。実際にキャナルの中に劇団四季の劇場があるからかもしれないけど、何となく建物全体がお芝居のセットになったような気がするのだ。
 電話が終わって、ポケットに携帯電話を放り込んだ恭吾は辺りを見渡していた。あたしは「こっちだよ!!」と言って、彼に向かって手を振った。
 こっちを振り返った恭吾が驚いたように目を見開いて、何かを言おうとした。
 その刹那、背中にドン、という重い衝撃を感じた。
 誰かがぶつかってきたというのはすぐにわかった。背後で女の人のものらしい「――ああっ!!」というなんとも切ない悲鳴のような声も聞こえた。
 でも、その瞬間にはあたしはなす術もなく運河の中に落っこちていた。

 

「あ~、もう、最低っ!!」
 何事かと立ち止まってこっちをみる野次馬の視線を懸命に無視して、あたしは橋の上にへたりこんでいた。

 運河自体、そこまでの深さがあるわけじゃなかった。せいせい一メートルくらいだろう。頭から真っ逆さまという落ち方じゃなかったので、濡れたのは胸から下だけだった。
 ぶつかってきたのは小学生にしては大柄な、ありていに言うと肥満体型の男の子だった。背丈もそこそこだったし、体重はあたしよりも重いだろう。

 彼をそのままちょっとだけ小さくしたような弟と二人で、見るからに申し訳なさそうな顔で立たされている。兄弟で何かを取り合って追いかけっこをしていて、お兄ちゃんのほうがあたしに突っ込んできたというわけだ。
 悲鳴をあげたのは彼らのお母さんで、彼女はあたしの着替えを買いに上の階にあるユニクロへ走ってくれていた。お父さんは兄弟に向かってなにやらガミガミと怒鳴りつけている。

 すっかりしょげ返った二人の様子がなんだかユーモラスなのと、子供が他人に迷惑をかけても気にしない親が多いのに人前でちゃんと子供を叱っている様子に、あたしは自分の中の怒りが静まるのを感じていた。
 むしろ、あたしの怒りは違う方向に向かっていた。
「大丈夫か?」
 恭吾は傍らに膝をついて、どこからか持ってきたタオルをあたしの肩にかけていた。
「大丈夫そうに見える?」
「……見えないな。気が効かなくてすまない」
 恭吾は本当に申し訳なさそうに表情を曇らせていた。あたしを引き上げるときにかなり水をかぶっていて、恭吾の服も前半分はずぶ濡れだった。
 お母さんは息を切らせて戻ってきた。腰を痛めるんじゃないかと思うくらいに深々と頭を下げながら手渡された袋には、下着とトレーナー、スカートの替えなど一通りのものが入っていた。

 トイレでそれらに着替えて、着ていたものを袋に詰め込んだ。下着は細かいサイズを言わなかったので、真奈がしているようなスポーツブラだった。靴下とスニーカーまでは入っていたけど、さすがにブルゾンの替えは用意されていなかった。
 バッグには撥水処理がしてあったおかげで、中身は無事だった。この上、携帯電話まで水没していたら、あたしは本当にぶち切れていたかもしれない。
 何が起こるかわからないのが人生だということを、この歳で思い知らされているあたしではあるけれど、まさか十一月の夜にこんな街中で寒中水泳をやる羽目になるとは思わなかった。
 外はトレーナーだけではさすがに寒かった。水に落ちて身体が冷えたせいもあるだろう。
 事件現場には家族の姿はなくて、恭吾が手持ち無沙汰に突っ立っているだけだった。この期に及んでそれが絵になっているのが、なんだか余計にムカついた。
「あれっ、あの人たちは?」
「帰ってもらったよ。今日中に長崎に帰らなきゃならなくて、高速バスの発車時刻が迫ってたらしいんでね。くれぐれも申し訳なかったと伝えてくれとのことだ」
「……まあ、いいけど」
 クリーニング代を預かってると恭吾は言った。返事の代わりに手に持っていた紙袋を彼に押し付けた。
「寒くないか?」
 恭吾は心配そうに言った。
「寒いよ。濡れたブルゾンを着るわけにはいかないし」
「替えを買いに行こう。とりあえず、これを着ておいてくれ」
 恭吾はジャケットを脱いで、あたしの肩に掛けた。恭吾の体温の名残りとふんわりと漂ういい匂いが、あたしの逆立った心を少しだけ宥めた。
 コムサストアで新しいダウンジャケットを買った。びしょ濡れになったってダメになったわけじゃないんだから、恭吾が買ってくれる必要も謂れもなかったのに、彼は当たり前のように代金を支払ってくれた。
 手荷物が多くなったので地下駐車場に停めてあったメルセデスに戻った。トランクに袋を放り込みながら、替えの服ならマリノアで買い込んだものがたくさんあったことを思い出した。
 着いてからまだ何もしていないけど、キャナルの中に戻る気はしなかった。そう言うと、恭吾はうなずいてメルセデスのエンジンをスタートさせた。
 那珂川沿いのam/pm前の出口から地上に出た。とりあえずキャナルの周りを一周して国体道路のほうへ向かった。
「すっかり暗くなったな。――さて、お腹は空いてないか?」
「子供じゃあるまいし、何か食べさせれば機嫌が良くなると思ってない?」
 恭吾は返事をしなかった。
 彼が悪いわけじゃないことはわかっていても、ほったらかされている間のことだという思いが態度を刺々しくさせた。
 いっそのこと、恭吾がこれほど心配してくれなければ、あたしも自分の身に起こったことを笑い飛ばすことができたかもしれない。けど、それを今さらやるのも不自然だった。
 クルマは渋滞の中をゆっくりと進んだ。きらびやかなネオンと切れることのない人の流れ。
 不意に寒気があたしの身体を襲った。自分でもビックリするほど身体が震えた。
「……さむっ」
「おい、ホントに大丈夫か? もう、帰ったほうがいいかもな」
「ううん、平気だよ。まだ帰りたくないし。でも……」
「でも?」
「お風呂入りたい」
 恭吾はまじまじとあたしを見た。さすがに意外だったのか、見たこともないほどあんぐりと口を開けている。
「風呂!?」
「うん。ちょっとあったまりたい。温泉なんて贅沢言わないから」
「贅沢も何も、市内に温泉なんてないけどな。……風呂か」
 娯楽と名のつくものはたいてい揃う福岡にも本物の天然温泉だけはない。それが理由かどうか知らないけど、スーパー銭湯も郊外ならともかく、この近くにはない。薬院駅の近くにあったのは閉店してしまった。
「一番近いのは長浜にあるやつのはずだが、そこでいいか?」
「あんなとこまで行かなくていいよ。そこでいいじゃん」
 春吉橋のたもとに差し掛かったところで、対岸のほうを指した。そこには市内有数のラブホテル街がある。
「……おい」
「別にいいでしょ? ヘンなことするわけじゃないんだし。それに最初から、二人っきりになれるところへ行く予定だったじゃない」
 恭吾は今日一日で一番鋭い視線を投げてきた。
 でも、それはすぐに弱々しいものになった。あてつけのようなわざとらしいため息を洩らすと、恭吾は乱暴な手つきでウインカーをあげた。メルセデスは橋を渡った先の狭苦しい路地に、まるで殴り込みのような勢いで乗り入れた。