「パートタイム・ラヴァー」第6回 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
 メルセデスは海沿いに伸びる都市高速を東区のほうに向かって走っている。
 お坊ちゃまのくせに飛ばし屋だったアニキがこの道が好きで、別に急ぐ理由もないのによく乗っていた。あたしもその助手席の窓からぼんやりと博多湾を眺めたものだ。
 バイクの二人乗りでは危ないので(たぶん、禁止のはずだ)真奈とのお出掛けで走る機会はまったくない。乗るとしたら色ボケカップルのドライブにお邪魔させてもらうときと、真奈のお祖母ちゃんと一緒のときくらいだ。
 恭吾はさっきから携帯電話のインカムで誰かと話している。仕事モードになると途端にいつもの無表情で、話題が愉快なものか、そうじゃないのかは横で見ていてもまるでわからない。
「――オーケー、引き続き監視を続けてくれ。じゃあ、また後で」
 電話が切れた。恭吾はインカムを無造作な仕草で外して、丸めてダッシュボードに放った。
「音楽、かけていいよ」
 電話中は邪魔になるのでCDは止めてあった。再生ボタンを押そうとして、ふと、コンポの下に突っ込んであるCDケースが目にとまった。
 セピア色のジャケット写真。薄い口ひげを生やして髪を後ろに束ねた黒人男性のアップ。大きなサングラスが特徴的だ。その奥で遠くを向いているはずの視線がどうにもあやふやに思えるのは、その目が見えていないことを知ってるからかもしれない。
「知ってるかい?」
「恭吾ってば、あたしをバカにしてるでしょ。スティービー・ワンダーくらい知ってるよ。中学校の英語の教科書に出てたもん」
「最近の教科書は洒落てるんだな」
「恭吾のころの教科書ってどんなのだった?」
「そんな昔のこと、覚えてるわけないだろ。一回り違うんだぞ――お前さんとは」
 やっぱり恭吾はあたしを呼び捨てにできないようだった。さっきから、できるだけ名前を呼ばなくていいようにしている。そういえば恭吾は真奈に対しても滅多に名前では呼ばないし、同じように真奈も恭吾のことを名前で呼ぶことはない。いつも”あんた”と”あいつ”だ。
 何となくCDを聴いてみたくなった。ケースを開けると恭吾は少しだけ意外そうな顔をした。
「お奨めはどれ?」
「そうだな……。そいつはベスト盤だから、どの曲も聴いたことくらいはあるんじゃないか」
「ふ~ん。まあいいや」
 コンポのスリットにCDを挿し込んだ。
 ライブ音源っぽいホールのざわめきをバックに、ゴスペルのような力強い女の人の歌声が流れ出した。それにハーモニカの音色が重なる。
「スティービー・ワンダーって女の人なの!?」
「それ、コーラス」
 すぐに缶コーヒーのCMで聞き覚えのある繊細そうな高い歌声が入ってきた。
 ……だよね。
 ちらりと恭吾を見た。そ知らぬフリをしているけど口許が明らかに緩んでいる。ふん、どうせ洋楽オンチだよ、あたしは。
「コレ、聴いたことないよ。ホントにヒット曲なの?」
「かなり初期の曲だから、日本ではポピュラーとは言えないかもな」
 CDを替えようかと思った。でも、それもなんだか負けを認めたようで癪に障る。
 適当にスキップ・ボタンを押してみた。ディスプレイが「Part‐Time Lover」に変わった。
「あ、これなら知ってる。真奈のipodに入っているの、聴いたことがあるよ」
「相変わらず洋楽かぶれなんだな」
 人のことが言えるのか、という突っ込みはやめておいた。
 スピード感のあるポップなメロディ。跳ねるような単音節ばっかりの歌詞。ちょっと聞き取りにくいのは、あたしのヒアリング力が低いからだけじゃないはずだ。
 歌詞カードを読んでみた。そんなに難しい英語じゃないので、内容はすぐに理解できた。
 
”We are strangers by day,lovers by night.Knowing it's so wrong,but feeling so right”(僕らは昼は他人、夜は恋人。間違ってることはわかってる。でも、これでいいのさ)
 
「……これって、ひょっとして不倫の歌?」
「ひょっとしなくても不倫の歌だよ。間違っても中学校の英語の教科書には載せられないな」
「信じらんない。だってこの人、アパルトヘイト反対の歌を作ったり、国連で演説とかした人なんでしょ?」
「スティービー・ワンダーも聖人君子じゃないってことだな」
 恭吾は忍び笑いを洩らした。
 クルマは千鳥橋の立体交差を通り過ぎた。この後は海ノ中道を通って志賀島まで足を伸ばすと聞いていた。
「ねえ、恭吾って浮気したことある? 今日のこれは別にして」
 恭吾は目の端であたしを見ただけだった。当て擦りも何度もやってると効果は薄くなる。
 無言でスルーされるかと思った。けど、恭吾は話に付き合ってくれた。
「どこまでやったら浮気か、っていう定義によるな」
「こっそりデートしたら浮気」
「ずいぶん厳しいな。それなら何度か、思い当たるフシがある」
「……認めるんだ?」
「村上恭吾も聖人君子じゃないってことだな」
「あのー、被疑者の自白は、法廷では証拠として採用されますけど?」
「そのときは浮気の定義の有効性を最高裁まで争うよ。――なに、ふくれてるんだ?」
「だって、恭吾ってば、そんなことしないタイプだって思ってたのに」
「おや? 今日のこれも浮気だって言ってなかったか?」
 横目で睨むあたしに、恭吾はしてやったりとばかりにニヤリと笑い返した。
 スティービー・ワンダーは「Part‐Time Lover」を歌い終わって、「I Just Called To Say I Love You」に取り掛かっていた。「心の愛」という日本語のタイトルになら覚えがあった。

 ステキなバラードなんだけど、さっきの歌のあとではものすごく嘘くさく聞こえる。
「一回だけだな」
 恭吾はポツリと言った。
「何が?」
「俺の基準に照らしての浮気。大学の三年目だったかな、ゼミで一緒になった子に誘われてさ。そのころ、すでに菜穂子と同棲して一年くらい経ってたから、何となく刺激が欲しかったみたいなところがあってね」
「……それで?」
「菜穂子にはバイトに行くって言っておいて、その日は他のやつに代わってもらってさ。当時乗ってたオンボロのハチロクで遠出したっけ」
 なんだか良い思い出のような口調だけど、紛うことなき犯人の”秘密の暴露”だった。
「で? 西南大学法学部三回生の村上くんは、ゼミの彼女とどこまでいったの?」
「どこだったかな。えーっと、その子が心霊スポットが好きだったんで、真夏の夜中に犬鳴峠にも行ったんだ。……って、その”どこまで”じゃなさそうだな」
 大きくうなづいた。自分でも目つきが険しくなってるのがわかる。
「おおよそご想像通りだと思うがね。二十歳そこらの若い二人がホテルに入って、一晩中トランプでもないだろ」
「理解を求められても困るんだけど」
 恭吾は答えなかった。タバコを咥えると片手で器用にジッポの蓋を開けた。シュボッという音とオイルが燃える独特のニオイが漂ってきた。恭吾が少し窓を開けたので、風を切るゴウッという音がクルマの中に入ってきた。
「どうして一回だけなの?」
「……そんなにしょっちゅう浮気するタイプに見えるか、俺?」
「そうじゃないけど。恭吾ってモテそうだし、その気になれば引く手数多じゃないのかなって。ひょっとして菜穂子さんにバレて、ひどい目に遭ったとか?」
「そんなヘマはしない。ただ、浮気すると、どうしても自分の大切な人に嘘をつかなきゃならなくなる。それが嫌になっただけさ」
 この人らしい理由だな、という気がした。
「じゃあ、それからは浮気はしてないんだ?」
「俺の基準においてはね」
「ちょっと待って。それって、恭吾が「これは俺の基準では浮気にあたらない」って言い張れば浮気じゃないってこと?」
「そういうことになるかな。浮気は間違いなく故意犯だけど、故意犯の構成要件を満たすためには故意の存在が認定されなくてはならない。それには行為者において、それが犯罪行為であるとの認識が必要になる。それが主要な学説の立場だよ」
 恭吾は気取った講義口調で言った。その説はどこかおかしいけど、どこがおかしいのか、すぐには指摘できなかった。
 なので、とりあえず普通になじっておくことにした。
「……この屁理屈男」
「屁理屈だって理屈のうちさ」
「あ、開き直ったな」
 恭吾はこらえきれずに大声で笑い出した。その優しそうな横顔を、あたしはちょっとだけフクザツな想いで見ていた。
 真奈には今、梅野さんという恋人がいる。だからか、あたしが冗談混じりに「村上さんってカッコいいよね」と言えば、真奈はずっとフリーのあたしに向かって焚きつけるようなことを言う。
 そんな煽りに乗るほど、自分が単純だとは思っていない。
 なのに、彼にデートを申し込まれてからの一週間、あたしはどうにもならない息苦しさのようなものを感じていた。
 独身の恭吾にとって、あたしとこうやってデートするのは浮気でもなんでもない。恭吾が真奈のことをどう思っているかは彼の問題で、あたしが考えることでもなければ、考えてどうにかなることでもない。
 あたしが自分の気持ちに正直になっても、もし堂々と付き合うことがムリならパートタイムの恋人になることを願っても、誰からも非難される謂れはないはずだ。
 なのに、どうしてこんなに後ろめたいんだろう?