「La vie en rose」第2回 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
 それから小一時間ほど一人で飲んで、私は人形小路を後にした。
 アパートに帰っても誰が待っているわけでもなく、何かやることがあるわけでもなかった。せいぜいテレビを見ながら缶ビールで飲み屋の延長戦をやるくらいのものだ。
 非番の日に外に出なくていいように、南新地の国体道路沿いのローソンで食料の買いだめをしておくことにした。
 一時期ほどの賑わいはなくなってしまったが、それでも中洲の夜は騒がしい。特に最近はごく普通の若者たちの姿が目につく。私が若かった頃は中洲は大人の世界だったのだが、それはもう昔の話だった。
 同じように若者に占領されたローソンで弁当やサンドイッチ、カップラーメン、缶ビールなどを買い物カゴに放り込んだ。
 支払いを済ませて外に出ようとして、私は思い返して窓際の雑誌の陳列棚に向かった。
 そこには彼ら自身が陳列されているように立ち読み客が並んでいたが、僅かな隙間から半身を入れるとダイエーホークスのスタジアム・ジャンパーを来た少年が私の分のスペースを開けてくれた。
 私は小さく頭を下げて目についた分厚い風俗情報誌を手に取った。一瞬、隣の少年が訝しむような表情を見せたが、彼は何事もなかったように礼儀正しく手にした雑誌に戻っていった。
 他人の目を気にするにはずいぶんと感受性が摩滅してしまっているが、その場での立ち読みはさすがに憚られた。もう一度レジに並んで支払いを済ませて、住吉神社の近くの自分のアパートまでブラブラ歩いて帰った。
 冷蔵庫に買ってきた食料を放り込んで、ビールと風俗情報誌を手にリビングのソファに腰を下ろした。
 2LDKの部屋は一人暮らしにはちょうどいい広さで、独り者にしてはきれいに片付けられているという自負がある。
 もっとも、それは私が生来のキレイ好きだからという理由ではない。

 ずいぶん長く付き合っていた――と言っていいのか、かなりの疑問はあるのだが――女性が時折この部屋に入っては掃除や洗濯をしてくれていて、おかげで片付いていないと気が済まない性分になってしまったのだ。彼女が去った後にしばらく散らかっていた時期もあったが、結局は自分でやるようになった。 
 つまらない過去を追い払って、ビールのプルタブを押し開けた。
 風俗情報誌は厚さが二センチ弱ほどもある電話帳もかくやという代物だった。斯界の住人たちが服の下に仕込む緩衝材といえば電話帳が一番ポピュラーだが、防御力という意味ではこっちのほうが硬さの点で上回っているような気がした。もっとも事が終わった後に介抱しようとしたら半裸の女の表紙が出てきては場が締まらなくなる恐れはあるが。
 巻頭には福岡の風俗産業で働く娘のグラビアが載っていた。
 いくら一般誌のレイアウトを模したところで所詮は射精産業の従事者でしかないのだが、彼女たちが専門誌とは言え顔を晒すのはあくまでも多くの客をつかむための営業活動であり、そこには欠片ほどの夢も甘えもないのかもしれない。むしろ一般誌でグラビアをやりながら人気の凋落に比例して着衣の面積が狭まっていく落ち目の娘のほうがよほど哀れな気がする。
 肝心の情報紹介のページは業態別になっていた。他の風俗は無視して私は出張ヘルスのページを繰った。
 一ページに上下二段で八人ずつが掲載されている。彼女たちのポーズは概ね膝立ちで一部が横座りの格好になっている。大半は手で顔を覆っていて下着姿の身体しか見ることはできない。身長とスリー・サイズ、できるサービスの種類などが小さな枠にまとめられていて、客はそれを頼りに店と話をするのだ。
 シャングリ・ラのユキコは他の娘の二倍のスペースで扱われていた。
 理由は一目瞭然だった。彼女が顔を手で覆っていないからだ。年齢の二十六歳は私の記憶どおりなら三歳ほどサバを読んでいることになるが、写真で見る限りではあと三歳若くても通用しそうだった。丹念に見比べたわけではないがサービスの種類も他の娘たちよりも多そうだ。
 久しぶりに見る有紀子は私の記憶にある彼女とは別人のようだった。
 肩口まであったストレートは耳元で前下がりになるボブカットになっている。すっきり通った鼻梁やアーモンド型の黒目がちの目許は同じだが、ルージュの塗り方が違うのか、昔よりも唇がポッテリと肉感的に見えた。
 刑事総務課の中でも彼女がいたのは庶務係で、同じフロアにあっても一般の捜査員とはあまり関わり合いがない。それぞれの課にちゃんと一般事務を受け持つ警察職員(公務員だが司法警察員ではない)がいるからだ。
 ところが私がいる捜査二課ではヴェテランの女性事務員が寿退職したばかりで後任の娘が使い物にならず、私は様々な書類を持って彼女のところへ行ったものだった。造作のハッキリした容貌とは裏腹にいつも落ち着いた感じで、どうしても殺伐となりがちな刑事たちの中で悠然と構える有紀子は周囲の誰からも信頼されていた。
 
     *     *     *
 
「熊谷警部補って、思ってた感じとぜんぜん違いますよね」
 有紀子は私の腕を取ってそう言った。
 クセのあるどこか甘ったるい声。本人にはまったくその気はないだろうが、男の保護欲をそそる不思議な声だった。彼女が僅かな時間でクラブ内にそれなりのポジションをかち得たのは、この声があってのことだと言っても過言ではなかった。
「思ってたって、どんな?」
「もっと怖い人かと思ってました。腕なんか組んだら怒られそうな感じ」
「腕くらい構わないさ。それに離れて歩いていたら同伴出勤に見えんだろう」
 クラブには同伴出勤と言うものがあって、それにも当然のようにノルマがある。有紀子は何人か獲得した指名客を上手に回しながらそれらをこなしていたが、時にはポッカリとスケジュールが空いてしまうことがあった。
 そういうとき、有紀子はよく私に同伴するように求めてきた。連絡係である私は彼女の常連客の一人という偽装をしていて、それがまったく同伴出勤をしないのは不自然だというのが彼女の言い分だった。四課の経理担当者は私に憑りついて離れない悪霊を見るような視線を向けたが、正しいのは有紀子のほうだったので課長はとやかく言わずに決裁を下ろした。危険な役目をさせているという負い目もあったかもしれない。
「だが、警部補と呼ぶのはやめたほうがいいと思う。うっかり店の中で出たらどうするんだ?」
「そうですね。じゃあ、お店の中みたいに専務って呼びましょうか?」
「……それも照れ臭いな」
 私はかつて捜査の過程で知り合った知己の人物の協力で、彼の会社の重役という触れ込みになっていた。
「じゃあ、なんて呼べばいいんですか?」
 有紀子はプッと頬を膨らませた。
「普通に苗字にさん付けでいいだろう」
「それじゃ当たり前すぎてつまんないですよ。えーっと、下の名前は?」
「幹夫」
「じゃあ、幹夫ちゃん。あ、ミッキーでもいいなあ」
「ミッキー!?」
 私は愕然として彼女を見やった。
 小首を傾げて私を見上げていた有紀子は唐突に弾けるように笑い出した。何と答えていいか分からずに、私はしばらく涙目の有紀子を見つめて笑いが収まるのを待った。
「ごめんなさい、あー、可笑しい」
「……年寄りをからかうもんじゃない」
 困惑する私を尻目に有紀子は取り出したハンカチで目許を押さえていた。すれ違う人々の視線が自分への冷やかしに感じられて背中がむず痒かったが、素知らぬ顔をして何とかそれらをやり過ごした。
「年寄りって言うけど、熊谷さんってお幾つなんですか?」
 有紀子は訊いた。とりあえず無難な選択をしたようだったが声には明らかに笑いの残滓が残っていた。
「四捨五入すれば四〇だ」
「まだ若いじゃないですか」
「そんなことはない。最近、酒が抜けるのに時間がかかるようになってきたよ。この前、店に行ったときも次の日が大変だった」
「あれだけ飲めば誰だってそうですよ。って言うか、熊谷さんってホントにお酒強いですね」
「自覚はないんだがな。一人暮らしなんで、飲み始めると朝まで飲んでしまうんだ。そんな生活を続けていれば嫌でも強くなるさ」
「熊谷さんって独身なんですか?」
「おや? 課内の人間のことなら何でも知ってると思っていたが」
「そんなことないですよ。……へえ、そうなんだ。彼女とかはいないんですか?」
 不躾な質問だが、屈託のない口調で訊かれると不思議と腹は立たなかった。
「そんなのはいないと言ったら、誰か紹介でもしてくれるのか?」
「あたし、熊谷さんなら付き合ってもいいですよ」
「バカなことを。お前さん、地元に婚約者がいるんだろ」
「そうなんですけどねえ」
 有紀子は大きくため息をついた。
「どうかしたのか?」
「結婚が決まってから、何だか逆に気持ちが離れちゃったようなところがあって。このまま、この人と結婚していいのかなあって」
「マリッジ・ブルーか」
「って言うんですかね。一緒にいられればいいのかもしれませんけど、あっちはあっちで忙しいし、あたしもこんなことしてますし」
 有紀子は丈の短いワンピースの裾を軽く持ち上げた。アップにまとめた髪と肩口を覆うファーのショールは中洲の女性の代名詞と言ってもいい。
「話してないのか?」
「もちろんですよ。潜入捜査のことは誰にも話しちゃいけないって課長に言われてますから。こっちにはほとんど友だちがいないんで、誰かに見られたりはしてないと思うんですけどね」
「早くカタがつくといいな」
「ですね。あ、でもそうなったら、熊谷さんとこうやってデートもできなくなりますね」
「そうだな。それはちょっと残念かもしれない」
「ちょっと?」
 有紀子は眉根をよせて不満そうに口を尖らせていた。黒真珠を思わせる丸い眼が細まって私を睨んでいる。

 私は大げさに肩をすくめた。
「悪かった、訂正するよ。お前さんとデートできなくなるのは非常に残念だ」
「よろしい」
 有紀子はニッコリと微笑んで、再び私の腕に手を絡めてきた。私はただ苦笑いを浮かべるしかなかった。
 
     *     *     *
 
 当然のことだが、情報誌にはシャングリ・ラの電話番号が載っている。
 もちろん、逮捕されたその日に出勤などしていないだろう。というより、いくら揉み消しがあったところでその日に釈放などされないはずだ。店に電話をかけるのであれば明日以降ということになる。
 ただし、売春防止法ではなくても警察に目をつけられた女をシャングリ・ラなる店が雇い続けるかどうかは微妙なところだ。

 おそらく有紀子は違う店に移ることになるだろう。そうなったら彼女の行方は分からなくなってしまう。調書に自宅の住所や電話番号などを残しているだろうが、かつての職場の人間に知られてしまった以上、有紀子の性格から考えてそれらも早々に引き払うはずだ。
 つまり、確実に連絡が取れるのは彼女が勾留されている今夜しかないということだ。
 電話の子機を手にして中央警察署の番号を呼び出したところで、私は自分が何をしようとしているのかに気づいた。
 連絡をとったところでどうなると言うのだ。「何故、こんな仕事を?」と説教でもするつもりなのか。
 警察を去った後、有紀子がどんな二年間を送ってきたのかは私には分からない。その私が彼女に対して何を語れるというのだろうか。 
 何度か連絡をとろうと考えたことはあった。しかし、同伴出勤のために聞いておいた彼女のポケットベルは辞めてすぐに解約されてしまっていた。経緯を考えると彼女の実家に電話をすることもできなかった。有紀子の両親にしてみれば私は娘の幸せを台無しにしてしまった大馬鹿者たちの一人なのだ。
 それでも今のままで放っておいていいとは思えない。彼女を真っ当な世界に連れ戻すのは誰かがやらなくてはならないことだった。しかし、自分がそれに相応しい人間だとはどうしても思えなかった。
 子機を放り出して、私は缶ビールを勢いよくあおった。