ハードボイルドというジャンルの復興 | 『Go ahead,Make my day ! 』

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【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

えー、本日はお休みで(何故か、平日に休みがある不思議なサラリーマン……)、久々に街中の本屋さんなんぞに足を運んでみたのですが。

ありますね、「ロング・グッドバイ」の特設コーナー。

パネルにはカズオ・イシグロが寄せた紹介文なんかもあって、コーナー自体もなかなか目にとまる良い場所が割り当ててありました。「ロング・グッドバイ」だけじゃなくて清水訳の「長いお別れ」や「さらば愛しき女よ」、村上春樹訳の「グレート・ギャツビー」(スコット・フィッツジェラルド)や「大聖堂」(レイモンド・カーヴァー)なんかも一緒に並べてありましたね。

他にも翻訳物の文庫コーナーに早川書房による「ハードボイルドの探偵たち」(だったかな?)みたいな特集コーナーもあったのですが、「ああ、頑張ってるなあ」という微笑ましさと「せっかくのこのチャンスを逃すまじ」という商魂への薄ら寒さが入り混じって、わたしは思わず微笑を浮かべながらその場を通り過ぎてしまいましたよ。あはは。


現在、ハードボイルドというジャンルが下火なのは、おそらく誰も否定できないと思うのですよね。

いや、海外作品には良いものが多いし、それは確かに一部のマニア向けではありますが、ずっと静かに重々しく受け継がれ続けています。

問題はいわゆる国産ハードボイルド。

自分が敬愛すると公言する作家のことを悪し様には言いたくないのですが、デビューから20年で長編を4本(しかも第4作は駄作)しか書いていない原りょうが今回の「ロング・グッドバイ」刊行に際してメディアに「代表的ハードボイルド作家」と扱われること自体、異常なことだと言わざるを得ません。

若手の現代作家がハードボイルドというジャンルに手を出さない理由は、率直に「売れない」からだと思うのですが、では、なぜハードボイルドは売れなくなったのか。

ありきたりな表現を使えば「時代が求めていないから」なのでしょうが、わたしは過去の国産ハードボイルドの書き手が優れた作品を書いてこなかったから、そして、ハードボイルドというジャンルに対する上っ面な理解で書かれた似非ハードボイルドの氾濫がその原因じゃないかと思ってます。

まあ、だから未だに原りょうなのでしょうけどね。(いくら直木賞作家だと言っても)

そして、その凋落ぶりを示すのが「村上春樹版「ロング・グッドバイ」 清水訳から半世紀」という朝日新聞の記事における大沢在昌の発言。

元の記事がリンク期限切れなので抜粋を以下に。


村上版では、長いあとがきにも帯にも一切ハードボイルドということばが使われず、『準古典小説』と定義されている。これでは村上ファンが一時的にチャンドラーを読むようになっても、ハードボイルドというジャンルの復興にはつながらないのではないか


このブログではできるだけ他者への批判はしないようにしているのですが、敢えて言わせていただきます。


こ い つ、 バ カ じ ゃ ね え の ? 

(無意味に斜め字にしてみました)


この発言からは、自分たちがハードボイルドという表現形式を食いつぶしてしまったんだという反省も、自分たちがそれを取り返さなくてはならないという自覚も感じられません。

だいたい、「ロング・グッドバイ」1作でハードボイルドが復興するんだったら、誰も苦労なんかしませんよね。

もし本当にハードボイルドというジャンルを復興させようと思っているんだったら、彼らがやるべきことは「ロング・グッドバイ」を読んでハードボイルド小説に興味を持ってくれた読者の心を捉える素晴らしい作品を書くことで、他人の作品の宣伝文句や後書きの言葉の選び方に文句をつけることではないはずです。


まあ、こんなバカが「若手ハードボイルドの旗手」なんて言われてりゃ、そりゃ没落するよな……。