「――さよならをいうのは、わずかの間死ぬことだ。だったっけ?」
彼女が言った。目許が朱色の線を引いたようにほんのりと赤くなって、いつもはちょっとだけ吊り気味の目尻がとろんと下がってきている。
彼女の目の前には背の高いコリンズグラスがあった。三杯目のジン・トニックはもう、ほとんど入っていなかった。
もうすぐ看板の時間だった。店には彼女と店主の私しかいなかった。
「どこで仕入れたんだい、そんなセリフ?」
「マスターが隠してる文庫本で読んだの。ほら、キッチンの横の戸棚」
「別に隠しちゃいないよ」
私はバー・カウンターの奥、この小さな店の中で唯一、蛍光灯の灯っている小さなスペースに視線を投げた。分厚いカーテンのおかげで店内には洩れてこないが、私の足元にはフットライトのように光の帯が続いている。
彼女は一時期、この小さなスペースの住人だったことがある。
夜の街を遊び歩く生活の中で、行き先がなくなったときにふらりと現れてはそこへ潜り込んでいたのだ。私としても未成年だった――今だってそうなのだが――彼女をスツールに座らせるわけにもいかず、それを許していた。
バーは言ってみれば、疲れた鳥が羽根を休める止まり木のようなものだ。彼女の場合、ちょっと羽根を休める場所が違ったに過ぎない――ということにしておこう。
二月初旬の夜で、辺りは洒落にならないほど肌寒かった。
なのに、老朽化したこの店のエアコンはここ数日ご機嫌が悪くて、あまり店の中は暖まっていなかった。私はもう慣れたものなのだが、彼女は外を歩いてきた格好のままでスツールに腰を下ろしていた。
「トゥー・セイ・グッバイ・イズ・トゥー・ダイ・ア・リトル(To say good-bye is to die a little)」
私がそう言うと、彼女は少しだけ眉根を寄せた。
「それ、原文?」
「そうだよ。昔、ペーパーバックで読んだんだ」
「マスター、英語なんて読めるの?」
「昔、まだ福岡に出てくる前に、佐世保の米軍基地の近くで商売をしていたことがあるのさ。もう四十年くらい昔の話だけどね」
「そっか、長崎なんだっけ」
「ペニンシュラさ」
私はニヤリと笑った。特定の地名ではなく”半島”を指す単語なのだが、ロス・マクドナルドの邦訳ではなぜか地名として呼ばれる”半島”という単語にそうルビが振られている。
「でもさ、それだと訳がおかしくない?」
「どうして?」
「だって”間”って単語がないもん。”To say good-bye is to die a little”なら”さよならをいうのは、少しだけ死ぬことだ”じゃないかな?」
「こいつは驚いた。あの劣等生がそこまで英語に堪能になったとはね。よっぽどお友だちの教育がいいと見える」
彼女は頬を膨らませた。大人びた面立ちの彼女も、こういう表情をしていれば歳相応に見える。
「だって厳しいんだもん。学校の休み時間も離してくれないし。ホント、クリスマスもお正月もなかったんだから」
「でも、そのおかげで志望校に受かったんだろ?」
彼女はいかにも渋々といった感じでうなづいた。
「だったら、その友だちに感謝こそすれ、文句を言う筋合いじゃないだろうよ」
「そうなんだけどさ。……ねえ、アタシの言ってること、合ってるでしょ?」
彼女は話を戻そうとした。私は苦笑した。
「誤訳というほどの間違いでもないけどなあ。でもまあ、チャンドラーが引用したフランス語の歌詞も”さよならをいうとき、私は少し死ぬ”って意味だったしね」
「でしょ?」
彼女は得意げだった。私はもう一度苦笑した。
当然のことではあるけれど、未成年の彼女はそうしょっちゅう私の店へ来るわけではない。
最後に来たのは去年の十二月二十四日、クリスマス・イブの夜だった。
その日だけは友人たちによる家庭教師からも解放されて、交際しているという少年と連れ立って、ここへやってきたのだ。親友だという少女に引き換え条件として出された課題を懸命にクリアして。
――ホント、頭が茹っちゃいそう。
――ま、仕方ないっすよね。
どっちが年上なのかよく分からない二人を、私はカウンターの隅に案内した。少年のほうはバーへ来たのは初めてのようで、何をどうすればいいのか戸惑っているようだった。
私は彼女にはスクリュー・ドライバーを、少年には飲みやすいモスコミュールをご馳走した。
二人は肩を寄せ合うように顔を近づけて、お互いのカクテルを味見したり、何やらヒソヒソと話をしていた。
私はそれを心の奥が暖まるような微笑ましい想いで――しかし、表向きは礼節を保った無表情で――見守っていた。
「マスター、お替り」
彼女の手の中でグラスが鳴った。
「違うものじゃなくていいのかい?」
「うん。これがいいの」
まったくといっていいほど甘さのないこのカクテルは、普通はそう何杯も飲めるものではない。
――飲みすぎじゃないのかい?
そう言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。誰にだって酒に何かをぶつけたくなる夜はある。
私は溶け残った氷だけのグラスを受け取って、手元のシンクに置いた。新しいグラスを取り上げてクラッシュアイスを落とす。ジンの種類を訊くと、彼女は何でもいいと答えた。
さっきのゴードンから変えて、美しいブルーのボトルからボンベイ・サファイアを注いだ。
トニックウォーターを満たしてアンゴスチュラ・ビターズを一ダッシュ振りかけ、最後にゆっくりとステアすれば出来上がりだ。グラスにライムスライスを飾るのが一般的なレシピなのだが、彼女は他の柑橘系は大丈夫なのに何故かライムが苦手だというので省略した。ギムレットを試していて気づいたらしい。
「……うん、美味しい」
彼女は満足そうに微笑んだ。
「それは良かった」
私も微笑み返した。
彼女が何かを言いたがって――ぶちまけてしまいたがっているのは分かっていた。
彼女の心のグラスが、今にも溢れ返りそうな感情で満たされていることも。彼女はそういう想いを上手に隠せるタイプではなかったし、それをまだ若い彼女に求めること自体が間違っていた。
しかし、それを揺らして中身をこぼすのはバーテンダーの役目ではなかった。
彼女はそれからしばらくの間、取り留めもなく近況を話し続けた。私はそれを聞くとはなしに聞いていた。
いや、正直に言えば話はあまり私の頭に入ってきていなかった。私の視線はカウンターに置かれた彼女の左手の薬指に注がれていたからだ。
そこにはクリスマス・イブに自慢げに見せてくれたシルバーのリングはなかった。
「……ねえ、聞いてる?」
彼女は私の注意を引くように、グラスを揺らして氷の音を立てた。
「あ、ああ。聞いているとも。友だちが柔道を始めたんだって?」
「全然、聞いてないし……」
彼女は不満そうに頬を膨らませて、芝居がかった腕組みをした。私は思わず舌を出して、肩をすくめた。
「すまん、違ってたかな」
「まあ、そんなに違っちゃいないけど……。あの子ったらアタシに隠れて剣道の道場に通い始めてたのよ。もうビックリ」
「へぇ……」
私は思わず間の抜けた相槌を打った。その友だちには何回か会ったことがあるが、確かにそういうタイプには見えない。
「何でまた、そんなことに?」
「知らない。自分を鍛え直したい、とか格好のいいこと言ってたけど。いくら中学に上がる前はずっとやってたからって、ねえ?」
「でも、そこまでやるってことは本気ってことだろう」
「まあねぇ、そうなんだけど……」
店内にはセロニアス・モンクの曲が流れていた。
独特の不協和音が混じる演奏は、精緻な演奏で知られるビル・エヴァンスなどとは違って聴く者をどこか落ち着かせない要素を持っている。
話すことが尽きたのか、彼女はオーク材でできたバー・カウンターの表面に落ちるピン・スポットの灯りをじっと見詰めていた。
私はそんな彼女の様子を、ある種の感慨を持って眺めた。
およそ三年前に彼女を襲った出来事は、十五歳の少女にはあまりにも残酷だった。
愛する父親が殺人事件を起こし、兄のように慕っていた父親の同僚がそれを告発した。周囲の人々は一斉に彼女に背を向け、学校も変わらざるを得なかった。
彼女が少しくらい世の中に斜に構えたからといって誰が責められるだろう。
しかし、彼女は立ち直った。
そのきっかけになった一昨年の夏の事件については、あまりにも憶測が飛び交っていて、私も真相を知っているわけではなかった。訊けば彼女は教えてくれただろうが、興味本位で訊くにはあまりにも重苦しい出来事だった。
その代わり、彼女はその事件がきっかけで関係を修復した父親の同僚をこの店に連れてきたり、事件の中心人物の一人だった青年医師のささやかな結婚パーティーでカクテルを振舞うのに、私のことを推薦したりしてくれた。
私と知り合ったころの全身の棘を逆立てたハリネズミのような雰囲気はなくなり、級友たちと楽しそうに談笑する姿を見て、私はまるで自分の孫を見ているような気分になったものだ。
実際、私には地元に長いこと連絡を取っていない息子夫婦がいて、孫娘は彼女の二つ年下だった。
ほぼ毎日、開店直後にラフロイグを飲みに来る常連が茶化しながら、私が彼女のことを気にかけずにいられないのは孫の代わりだからだと言う。
おそらくその通りなのだろう。
「あのさ……」
彼女がポツリと呟いた。何かを思い切ったような響きが声に含まれていた。
「何だい?」
「ほら、去年のクリスマス・イブにここに一緒に来た彼、いたじゃない。――アタシさ、あの人と別れちゃった」
「……そうか」
「別にさ、他に好きな人が出来たとか、そういうわけじゃないの。ただ――」
彼女はそこで拳を握り締めた。顔を伏せて、肩にグッと力を込めていた。まるで何かの痛みに耐えるかのように。
「ただ?」
「ゴメン、人前では絶対泣かないって決めてたから……」
彼女は顔を伏せたままで言った。
「……彼、ずっとヤンキーで少年院とかにも入ってたんだけど、コンピュータとか好きでそういう仕事に就きたがってたの。でも、そういう前科があって、なかなか希望してたところには就職できなかったんだよね。でも、ちょっとコネのあるところから「ウチで働いてみないか」って話が来たの」
彼女はその会社の名前を挙げた。福岡には意外とIT関連の会社が多いのだが、そこは私でさえ名前を聞いたことがある地場大手企業だった。
「彼、本当に有頂天で、アタシも自分のことのように喜んで。……でも、いいことばかりじゃなくてね。採用には、東京にある開発室勤務だって条件があったの」
彼女はコリンズ・グラスを傾けた。中身はもうほとんど入っていない。
「ずっと東京なのかい?」
「分かんない。でも向こうで頑張れば、そういうことになるだろうって」
「着いていくわけにはいかない――だろうね」
「アタシも東京の大学に行きたいと思った。成績的には無理じゃなかったんだよ。でも、お祖父ちゃんが入院してる今、お祖母ちゃんだけ残して福岡を離れるわけにはいかないもの」
「だったら、彼に「行かないで」って言えば良かったんだ」
私はわざと強い口調で言った。
彼女は跳ね起きるように顔を上げた。
「そんなの……。だって、せっかく手にしたチャンスなんだよ。アタシは彼の前に立ち塞がりたくなかった」
心の中でため息をつきながら、そうだろうな、と私は思った。
どうして、この子はこう不器用なのだろう。
「遠距離恋愛って選択肢はなかったのかい?」
我ながら馬鹿なことを訊いているという自覚はあったが、私はそう言ってみた。
「彼はそうしようって言ったわ。アタシがコンピュータとか苦手なのも、東京に行く前にちゃんと教えていくからって。もしダメでも周りに詳しい人がいるから大丈夫だって」
「でも、そうじゃなかったんだね?」
彼女はコクリとうなづいた。
「だって、そんなの無理だもん。そりゃ、最初はいいかもしれない。でも、そのうちにアタシは彼が傍にいないことに耐えられなくなる。そして、いつか彼のことを恨み始めるわ」
普通なら私も「そんなことはないよ」と慰めたかもしれない。
しかし、彼女は母親を亡くして以来、ずっと二人で生きてきた父親が収監されるという経験をしている。彼女が身近な人間と引き離されることに耐えられないのは無理もないことだった。
「だって、初めて好きになった男の人なんだよ。……そんな形で嫌いになんかなりたくなかったの。だから、さっき……」
「別れてきたのか」
「あんたなんか、好きでもなんでもなかった。ただ、あの事件で迷惑をかけたから付き合ってやってただけだって。それなのに勝手なことをするんなら、どうにでもなっちまえ、どこへでも行っちまえ。――そう言って、思いっきり頬っぺたを引っ叩いてやったわ」
彼女はそのときのことを思い出すように、自分の手のひらに視線を落とした。もう赤いはずのないその手が、いまだに腫れ上がっているかのように痛々しい目で。
痛かったのは彼の頬と彼女の手のひらだけではあるまい。
お互いにそれは嘘だと分かっていたはずなのだから。
彼女はおこりのように肩を震わせて、小声で「あれっ?」と呟いた。
「おっかしいな。……泣かないって決めたのに」
泣き顔と笑い顔の入り混じったバラバラな表情を、彼女は何とか取りまとめようとした。しかし、一度こぼれたグラスの中身が元へは戻らないように、溢れ出した感情は止まることを知らなかった。
彼女は両手で顔を覆った。
私はカウンターの下にあらかじめ用意しておいた大判のコットンタオルを、しかし、そうであったとは気づかれないように少し間を置いてから彼女の頭にそっと覆いかぶせた。
「――マスター?」
「大丈夫。そいつをかぶっちまえば、お前さんが何をしようが分かりゃしない。好きなだけ泣けばいいさ。そして気が済んだら顔を洗っておいで。美味いコーヒーを入れてあげるから」
彼女は小声で何か呟いたようだった。しかし、何と言ったかは聞き取れなかった。聞き取る必要もなかった。
どれくらい時間が経っただろう。
モンクのピアノの音色に隠れるように続いていた嗚咽が収まり、やがて彼女はタオルで頭と顔を覆ったまま、スツールを降りてトイレに歩いていった。
私はコーヒーを淹れる準備をしながら、自分の心に正直になる代わりに、嘘をついて淡い恋を終わらせた彼女の心情を理解しようとしてみた。
人が嘘をつくのは、概ね、そこに隠さなくてはならない真実があるからだ。
しかし、隠された真実が必ずしも誰かを救うわけではない。むしろ、そうやって隠された真実は暴かれることで人を傷つけるものだ。正直が美徳であることは否定しないが、同じように嘘が必ず悪徳なわけではない。
彼女の優しい嘘がいつか彼女自身の心を救うことを、私は祈らずにはいられなかった。