人の心を慮るということ。 | 『Go ahead,Make my day ! 』

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【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

いつもほのかにブラックな語り口で楽しませていただいている真名さんブログですが、こちらの記事 の中で書かれていることが、ちょっと私にも引っかかる部分があって、こんな記事を書いているのですが。


あまり他人に訊くことでもないので、実際にどうなのかは分かりませんが、ある程度の年月を生きていれば、誰だって一度くらいは自殺を考えたことはあると思うのです。

私も、もちろん(?)あります。

フィッツジェラルドの言うところの「魂の午前3時」に目を覚ますことの多かった頃、それはもう、何度となく。

無力感や、自分の存在意義に対する疑問が頭をもたげ始めて、このまま消えてしまいたい、と思ったことも数知れず。

幸いにも(というべきか)行動に移すこともなく、こうやって生きながらえておりますが。


実際に死を選ぶ人と、思いとどまる人の間にある境界線が何なのかは、実際に越えたことのない私にはよく分かりません。

私が何故、自殺しなかったのか、と言われれば、それも正直に言ってよく分かりません。

ただ、私が自殺を考えなくなったのは、20代の初めに交通事故で逝った友人(と、その残された家族、恋人など)を見て、死を現実のものとして痛切に感じたからです。

あの時、私は強烈に「死にたくねぇ」と思いましたから。

 

>死ぬ覚悟があれば何だって出来る

 

間違ってはいない意見だと思います。

しかし、それは自殺する人への抑止力として、自殺を思いとどまらせるための言葉であって、死を選んでしまう人々の心を慮った言葉ではないな、と思うのですよね。

それは、「この世には生きたくても生きられない人がいるのに、死を選ぶとは何と罪深いのだ」と非難されるのに似ているような気がします。

正論だとは思うのですよ。

しかし、この言葉には生きることに疲れ、ふっとこの世から消えたいと思う、人間の心の弱さに対する想像力が決定的に欠けていますよね。


とは言いつつ、自殺は何と言い訳をしても「逃避」以外の何者でもないし、肯定する気は毛頭ないのですが、一方で小説書きの一人として、そうしてしまう、そういう道を選んでしまう人達の心中を慮る想像力を失いたくないな、とも思うのです。

小説を書くということは、登場人物の心の機微を描くことであり、それは突き詰めれば「死」について書くこととイコールのような気が、最近、しているのですが……。