御書に見る「成仏を約束された人々」13
妙法尼
生没年不明で妙法尼について、①駿河国(静岡県)岡宮の岡宮妙法尼とも云われ、夫(尾張次郎兵衛)や兄に先立たれながらも信仰厚く、大聖人から妙法尼御前御返事等の4編の御消息文を賜り、弘安5年2月に逝去したと伝えられている。他に同名で、②四条金吾の母、③佐渡中興(新潟県佐渡郡佐和田町字中原)に住む中興入道の母で夫を中興次郎入道といい、大聖人が佐渡流罪中に帰依し、身延入山後も音信を寄せた人、④新田五郎重綱(日目上人の父)の母、の記録が残されている。
「先法華経につけて御不審をたてて其趣を御尋ね候事ありがたき大善根にて候、 須弥山を他方の世界へつぶてになぐる人よりも・三千大千世界をまりの如くにけあぐる人よりも 無量の余の経典を受け持ちて人に説ききかせ聴聞の道俗に六神通をえせしめんよりも、 末法のけふこのごろ 法華経の一句一偈のいはれをも尋ね問う人はありがたし、此の趣を釈し給いて人の御不審をはらさすべき僧もありがたかるべしと、法華経の四の巻・宝塔品と申す処に六難九易と申して大事の法門候、今此の御不審は六の難き事の内なり、爰に知んぬ若し御持ちあらば即身成仏の人なるべし」(妙法尼御前御返事、一句肝心事1402頁)弘安元年7月 57歳御作
通解:まず法華経について、疑問を立て、その趣旨を尋ねられた事は、尊い大善根です。
須弥山を他方の世界へ小石の様に投げる人よりも、三千大千世界を鞠の様に蹴り上げるよりも、無量の経典を受け持って、人に説き聞かせ、聴聞した道俗に六神通を得させる人よりも、末法の今日において法華経の一句一偈の意義を訪ね問う人は稀です。またこの趣旨を説き聞かせて、人の疑問を晴らす事のできる僧も稀であると法華経の第四の巻・宝塔品というところに六難九易といって大事の法門が説かれています。今貴女がこの疑問を尋ねられた事は、六つの難しい事の中の一つです。それ故、もし法華経を持っていくならば、その人は即身成仏する事ができる人なのです。
※法華経(妙法)を持つ人は即身成仏する事ができる人です。
「此の経の題目は習い読む事なくして大なる善根にて候、悪人も女人も畜生も地獄の衆生も十界ともに即身成仏と説かれて候は、水の底なる石に火のあるが如く百千万年くらき所にも燈を入れぬればあかくなる、世間のあだなるものすら尚加様に不思議あり、何に況や仏法の妙なる御法の御力をや、我等衆生悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三仏性の因によりて即法・報・応の三身と顕われん事疑ひなかるべし、妙法経力即身成仏と伝教大師も釈せられて候、心は法華経の力にてはくちなはの竜女も即身成仏したりと申す事なり」(妙法尼御前御返事、一句肝心事1403頁)
通解:この法華経の題目は、その意味を理解して唱えなくても、大きな善根となります。悪人も、女人も、畜生も、地獄の衆生も、十界の衆生が皆、即身成仏できると説かれている事は、ちょうど水底に沈んでいる石でも、擦れば火を発す様に、百千万年の間、闇に閉ざされていた所でも、燈を入れれば明るくなる様なものです。世間の訳の分からない事でさえ、まだ、この様な不思議があるのです。ましてや、仏法の不思議な御力においてはなおさらです。我等衆生の悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三仏性の因によって、即法・報・応の三身如来と顕れる事は疑いないことです。「妙法の経力を以て即身に成仏する」と伝教大師も釈されています。その意味は、法華経の力によって、蛇身の竜女も即身成仏したということです。
※唱題する事で、我等衆生の悪業・煩悩・生死果縛の身が法・報・応の三身如来と顕れる事は疑いない、と仰せです。
「しかれば故聖霊・最後臨終に南無妙法蓮華経と・となへさせ給いしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給う、煩悩即菩提・生死即涅槃・即身成仏と申す法門なり、かかる人のえんの夫婦にならせ給へば又女人成仏も疑なかるべし、若し此の事虚事ならば釈迦・多宝・十方・分身の諸仏は妄語の人・大妄語の人・悪人なり、一切衆生をたぼらかして地獄におとす人なるべし」(妙法尼御前御返事、臨終一大事1405頁)弘安元年7月 57歳御作
通解:故聖霊は最後臨終の時に南無妙法蓮華経と唱えられたのですから、一生ないし無始以来の悪業は変じて仏の種となっているのです。これが煩悩即菩提・生死即涅槃・即身成仏という法門です。この様な人と夫婦の間柄となられたのですから、また女人成仏も疑いないでしょう。もしこの事が嘘ならば釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏は嘘つきの人・大嘘つきの人・悪人であり、一切衆生を騙して地獄に堕とす人なのです(でも決して、そうではないのです)。
※仏説が真ならば、夫婦共に成仏を約束されているのです。
「女人の御身・男にもをくれ親類をも・はなれ一二人ある・むすめもはかばかしからず便りなき上・法門の故に人にも・あだまれさせ給ふ女人・さながら不軽菩薩の如し」(妙法比丘尼御前御返事1419頁)弘安4年60歳御作
通解:あなたは、女人の御身として、夫に先立たれ、親類も離れ、一人・二人ある娘もあまりしっかりしておられず、便りもない(頼りにならない?)上、法華経の法門の故に人に怨まれる女人のあなたは、まるで不軽菩薩の様です。
※大聖人は妙法尼を「不軽菩薩の様です」と讃えておられます。
「女人は由なき道には名を折り命を捨つれども成仏の道はよはかりけるやと・をぼへ候に、 今末代悪世の女人と生れさせ給いてかかるものをぼえぬ島のえびすにのられ打たれ責られしのび法華経を弘めさせ給う彼の比丘尼には雲泥勝れてありと仏は霊山にて御覧あるらん、 彼の比丘尼の御名を一切衆生喜見仏と申すは 別の事にあらず、今の妙法尼御前の名にて候べし、王となる人は過去にても現在にても十善を持つ人の名なり名は・かはれども師子の座は一也、此の名も・かはるべからず、彼の仏の御言をさかがへす尼だにも一切衆生喜見仏となづけらる、是は仏の言をたがへず此の娑婆世界まで名を失ひ命をすつる尼なり、 彼は養母として捨て給はず是は他人として捨てさせ給はば偏頗の仏なり、争でかさる事は候べき、況や其中衆生悉是吾子の経文の如くならば今の尼は女子なり彼の尼は養母なり、 養母を捨てずして女子を捨つる仏の御意やあるべき、此の道理を深く御存知あるべし」(妙法比丘尼御前御返事1420頁)
通解:女人はつまらない。世間の道には、名を汚して命を捨てるけれども、成仏の(修行の)道には弱いだろうと思っていました。ところが今、末代悪世の女人と生まれて、この様に物の道理をわきまえない日本国の野蛮な人達にののしられ、打たれ、責められながら耐えて法華経を弘めておられる姿は、かの比丘尼とは雲泥の差ほど勝れていると、仏は霊鷲山でご覧になっている事でしょう。かの比丘尼(仏の御姨母・摩訶波闍波提比丘尼)の御名を一切衆生喜見仏というのは別の事ではなく、今の妙法尼御前の名なのです。王となる人は、過去にも現在にも十善戒を持つ人の名です。名は変わる事はあっても、師子の座は一つです。同じ様に、この(一切衆生喜見仏という)名も同じです。かの仏の御言葉に逆らった尼でさえ一切衆生喜見仏と名づけられました。あなたは仏の御言をたがえず、この娑婆世界で名誉もなげうち、命を捨てている尼です。彼(仏)は(摩訶波闍波提)比丘尼を養母としてお捨てにならなかったのです。あなたの事を他人として捨てられたならば、不公平な仏となります。どうしてその様な事がありましょうか。ましてや法華経譬喩品の「其の中の衆生は悉く是れ我が子」の経文通りならば、今の尼(妙法尼)は女子であり、彼の尼は養母です。養母を捨てないが女子を捨てるなどという事が、仏の御意である筈がありません。この道理を深く御理解してください。
※大聖人は、記別を与えられた釈尊の姨母よりも、妙法尼の方が優れており、親である仏が見ておられる、と仰せなのです。
「日月は地におち須弥山はくづるとも、彼の女人仏に成らせ給わん事疑いなし、あらたのもしや・たのもしや。(中略)
仏・法華経にまいらせ給へる女人の成仏得道・疑うべしや。」(松野殿御返事1390頁) 元号年不明、5月1日 妙法尼への御返事
通解:たとえ、日や月が地に落ち須弥山が崩れる事があったとしても、彼の女人が仏に成られる事は疑いないことです。まことに、たのもしいことです。(中略)
仏・法華経に御供養なされた女性の成仏得道は、絶対に疑いないのです。
※タイトルは異なるが、妙法尼への御返事と拝され、妙法尼の成仏を約束されています。