御書に見られる『衆生の成仏』15

 

 

「末法当時の有智・無智・在家・出家・上下・万人此の妙法蓮華経を持つて説の如く修行せんに豈仏果を得ざらんや、さてこそ決定無有疑とは滅後濁悪の法華経の行者を定判せさせ給へり」(教行証御書1282頁)

通解:末法の今の世の有智・無智・在家・出家・上下・万人はこの妙法蓮華経を持って、仏説のごとく修行するならば、どうして仏果を得ない事があるでしょうか。そうであるからこそ、「是の人仏道に於いて、決定して疑い有ること無けん」と、釈尊滅後の濁悪の末法の法華経の行者をして判定されているのです。

法華行者の行末末法の今、妙法を持って、仏説のごとく修行するならば、必ず仏果を得る

 

 

「夫れ法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり、然りといへども信ずる者は成仏をとぐ謗ずる者は無間大城に堕つ」(阿仏房尼御前御返事1307頁)

通解:そもそも法華経の本意は、一切衆生が皆成仏できる道を説いた御経なのです。そうではあるといっても、この経を信ずる者は成仏を遂げ、謗る者は無間大城に堕ちるのです。

妙法蓮華経の本意法華経の本意は、一切衆生を皆成仏できる道を説いた事であり、この経を信ずる者こそ成仏を遂げる

 

 

「雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ、御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり、仏に成る道も此くの如し、我等は穢土に候へども心は霊山に住べし、御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ」(千日尼御前御返事1316頁)

通解:雷門の鼓は千万里の遠くにあっても打てば即座に聞こえるのです。あなたは佐渡の国におられるけれども、心はこの国に来られているのです。仏に成る道もこの様なものです。我等は穢土に住んでいますが、心は霊山浄土に住んでいるのです。お顔をみたからとて何になるでしょう。心こそが大切なのです

【一切衆生の国土】我等は穢土に住んでいても、心は霊山浄土に住んでいる

                                                                                         

 

「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」(生死一大事血脈抄1337頁)

通解:(十界の当体が妙法蓮華経であるから、)仏界の象徴である久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経すなわち妙法蓮華経と九界の衆生の我等の三つには全く差別がないと信解して、妙法蓮華経と唱え奉るところを生死一大事の血脈というのです。この事こそが日蓮と弟子檀那等の肝要なのです。法華経を持つとはこの事をいうのです。

生死一大事の血脈久遠実成の釈尊と、皆成仏道の妙法蓮華経と我等衆生の三つには全く差別がないと信解し、唱題する事が日蓮門下としての肝要である

 

 

「ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし、釈迦仏多宝仏・十方の諸仏・菩薩・虚空にして二仏うなづき合い、定めさせ給いしは別の事には非ず、唯ひとへに末法の令法久住の故なり、既に多宝仏は半座を分けて釈迦如来に奉り給いし時、妙法蓮華経の旛をさし顕し、釈迦・多宝の二仏大将としてさだめ給いし事あに・いつはりなるべきや、併ら我等衆生を仏になさんとの御談合なり。」(諸法実相抄1360頁)

通解:ともかくも法華経に名をたて身を任せていきなさい。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩・虚空会において釈迦仏・多宝仏の二仏がうなずきあい、定められた事は別の事ではありません。ただひとえに末法の令法久住の為なのです。すでに多宝仏は半座を分けて釈迦如来に譲られた時、妙法蓮華経の旛をさしあらわして、釈迦仏・多宝仏の二仏が大将として定められた事がどうして偽りなのでしょうか。それこそは、我々衆生を仏にしようとの御談合なのです。

【衆生成仏への儀式】虚空会の儀式は衆生を仏に成さんとの協議なり

 

 

「一経の説に依るに一切衆生の心の間に八葉の蓮華有り男子は上に向い女人は下に向う、成仏の期に至れば設い女人なりと雖も心の間の蓮華速かに還りて上に向う、然るに今の蓮仏意に在るの時は本性清浄当体の蓮と成る若し機情に就いては此の蓮華譬喩の蓮と成る。」(十八円満抄1363頁)

通解:ある経の説によると、一切衆生の心の間には八葉の蓮華があり、男子は上に向かい、女人は下に向かうというのです。成仏の時に至れば、たとえ女人であっても、心の間の蓮は速やかに返って、上に向かうというのです。ところで、今の蓮が仏意にある時は、本性が清浄の当体蓮華(蓮華は本来、植物名であって法門名ではないが、華果同時に成り、汚泥より生じて汚泥に染まらずに清浄をたもち続けるという特質から、法華経の法門を蓮華と名づけ、天台家では、一切衆生の当体が妙法蓮華経であるとし、これを当体蓮華とした。日蓮大聖人は当体義抄で、森羅万象が悉く当体蓮華であり、一切衆生も妙法の全体であるとし、更に法華経を信ずる人のみが当体蓮華仏として顕れると述べられている)となり、もし機情(衆生・凡夫の機根と心情)について言えばこの蓮華は譬喩蓮華(法門の譬喩として用いられた植物の蓮華そのもの)となるのです。

法華経の法門】仏の本意は、衆生が当体蓮華仏に成る事を望んでおられる

 

 

御書「十八円満抄」まで

 

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