御書に見られる『衆生の成仏』12

 

 

「凡そ法華経と申すは一切衆生皆成仏道の要法なり、(中略)今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益あるべき時なり、されば此の題目には余事を交えば僻事なるべし、此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり」(御講聞書807頁)

通解:およそ法華経という経典は一切衆生を皆、成仏の道に誘う要法なのです。(中略)今、末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて衆生を利益させる時なのです。 だから此の題目には本義でない事柄を交えれば偏った考え方になるのです。 此の妙法の大曼荼羅を身辺に置いて心に幸せを念じ口に題目を唱える時なのです。

妙法の大曼荼羅を受持し口唱する時南無妙法蓮華経と申すは一切衆生皆成仏道の要法であり、大聖人仰せの大曼荼羅は楠板本尊の事ではないのです

 

 

「涌出とは広宣流布の時一閻浮提の一切衆生・法華経の行者となるべきを涌出とは云うなり」(御講聞書834頁)
通解:地涌の菩薩の涌出とは、広宣流布の時に全世界の全ての人々が必ず法華経の行者となることを涌出と言うのです。

広宣流布の時代全世界の一切衆生が法華経の行者となるべき時、地涌の菩薩の涌出という

 

 

「下種とはたねを下すなり種子とは成仏の種の事なり」(御講聞書837

通解:下種とは種をまく事であり、種子とは成仏の種の事なのです。

何の為の下種か下種とは衆生が仏に成る為の種をまく事なり

 

 

「信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり、是を天真独朗の即身成仏と名く。」(本因妙抄872頁)

通解:信心が強盛にして余計な事を考えず唯、南無妙法蓮華経と唱え奉るのであれば、凡夫の身がそのまま仏身なのです。これを天真独朗(作為のない自然の天性のまま独り明らかに開悟すること)の即身成仏と名づけるのです。

天真独朗の即身成仏信心強盛にして唯余念無く、南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり

 

 

本より学文し候し事は仏教をきはめて仏になり恩ある人をも・たすけんと思ふ、仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと・をしはからる」(佐渡御勘気抄891頁)

通解:元々、学問をしたのは仏教を習い究めて仏になり、恩ある人をも助けようと思ったからです。仏になる道は、かならず命を捨てるほどの事があってこそ仏になるのでしょう、と推量しているのです。

【仏と衆生の関係】難を超えて仏に成った者こそ、他を救済しようとする

 

 

「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず」(華果成就御書900頁)

通解:よい弟子を持てば師弟は共に成仏をし、悪い弟子を養えば師弟共に地獄に堕ちると云われています。師匠と弟子の心が違えば何事も成就する事はできないのです。

師弟不二良い弟子を持てば師弟共に成仏する

 

 

「成仏往生のなりがたき者・四人あり第一には決定性の二乗・第二には一闡提人・第三には空心の者・第四には謗法の者なり、此等を法華経にをいて仏になさせ給ふ故に法華経を妙とは云うなり。」(法華経題目抄944頁)

通解:成仏往生ができ難い者に四種類の人がいます。第一は決定性(すでに自身の地位を決めつけて動じない)の二乗であり、第二は法華経誹謗の一闡提人であり、第三は空理を最高の悟りと考える外道の者であり、第四は謗法の者です。これらの人々ですら法華経においては成仏させたのです。だから、法華経を妙というのです。

【衆生成仏の法門】全ての衆生を成仏させ得るから、妙法という

 

 

「強敵を伏して始て力士をしる、悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(佐渡御書957頁)

通解:強敵を倒して、はじめて力ある士と知る事ができるのです。悪王が正法を滅亡させようとする時、邪法の僧等がこの悪王に味方して、智者を滅ぼそうとする時、師子王の様な心を持つ者が必ず仏に成るのです。

※【衆生成仏の条件】師子王の如き強き心を持つ者、必ず仏に成る

 

 

御書「佐渡御書」まで

 

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