京都市南区 綾戸國中神社 | 京都からいろいろと

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綾戸國中神社(あやとくなかじんじゃ)

  京都市南区久世上久世町446

 

延喜式神名帳記載の「山城國乙訓郡 茨田神社」あるいは「大井神社」の論社の一つ。

 

ご祭神 綾戸宮 :  大綾津日神(まがつひのかみ)、 大直日神(おおなおひのかみ)、

           神直日神(なおびのかみ),

    國中宮 :  素盞鳴神(すさのおみこと)

 

 

由緒 (ホームページ等より)

 昔は綾戸宮と國中宮の二社であったが、現在では合祀され、左に綾戸宮が、右に國中宮が

鎮座されている。

社伝によれば、第二十六代継体天皇の御代には大堰川(桂川)七瀬の祓神として大井社と称し

第六十二代村上天皇天暦九年(965年)綾戸社に改称され、社号の額は第七十代後冷泉帝の御震筆

と伝えられている。

 また、國中社は本来蔵王の杜(現光福寺蔵王堂)に社地があって中世には牛頭天皇社とも呼ばれ

ていた。古くには久世郷全体の郷社であったと推定される。

戦国時代、國中社が綾戸社の境内に移され、以来綾戸國中神社と称するようになったのである。

 社殿は昔は西向きの二社殿であったが昭和九年の室戸台風によって倒壊したため約二十米北の

地に神社本来である南向きの一社殿二扉の本殿と拝所を昭和十一年秋に再建、その後拝殿、神饌所

が造営され神社としての形態を整えてきた。

しかし、昭和三十九年に東海道新幹線の開通のため社殿等を東に移転し現在の形態となり神宮鳥居

を備えた地域の氏神として信仰を得、また後述の所以で馬関係者からも崇敬されている。

 綾戸國中神社には全国でも唯一とされる事が二つある。

國中社の御神体が駒形であること。また新幹線開通のため移転を余議なくされたことである。

 

日本三大祭のひとつである祇園祭では、神輿の先導という重要な所役を当社の稚児(久世駒形稚児)

が勤め、長刀鉾の稚児も下馬する八坂神社の境内を騎馬のまま参入し、本殿に昇殿する。

通常、神社の御神体は「三種の神器(勾玉・剣・鏡)」が殆どだが、綾戸國中神社の御神体は全国的

にもごく稀な「駒形(馬の首の彫り物)」である。

そのため、昔は競馬馬の馬主が馬を連れて必勝祈願に来ていた。

そしてその時に、勝利をおさめた御礼として境内に灯篭が寄進された。

 

 

 

 

 

 

祇園祭 (ホームページより)

日本三大祭のひとつ祗園祭には欠かせないものとして山城國乙訓郡訓世村(現南区久世上久世町)の

綾戸國中神社の「久世駒形稚児」がある。

 その昔、神代の頃素盞鳴尊が山城の地西の岡訓世の郷がまだ一面湖水の時、天から降り給い、

水を切り流し、土地を開き、広々とした平野とされた。

 そして、その國の中心と思われる所に、「符」を遣わし給うた。その「符」とは尊の愛馬天幸駒

の頭を自ら彫刻して、新羅に渡海する前に形見として遣わし給うたのである。

 この形見{符}が國中社の御神体であり訓世の郷から祗園祭に供奉する稚児が、胸に御神体で

ある駒の頭の彫刻を棒持することから「駒形稚児」と言われる所以である。

 ところで、この「駒形稚児」と祗園祭との関係は

「國中社は素盞鳴尊の荒御魂なり。八坂郷祗園社は素盞鳴尊の和御魂なり。依って一体にして二神、

二神にして一体で神秘の極みなり。」と古文書に記され、「御神幸の七月十七日に訓世の駒形稚児

の到着なくば、御神輿は八坂神社から一歩も動かすことならぬ。若し此の駒故なくしてお滞りある

ときは、必ず疫病流行し人々大いに悩む。」とも伝えられている。

 前述の由来にて、また駒形を奉持することで稚児は神位つまり神そのものとされ、長刀鉾の稚児

も下馬する八坂神社境内を南楼門より騎馬のまま参入し拝殿を三巡の後、一歩も地を踏むことなく

本殿に昇殿し祭典に臨むのである。

そして神幸祭、還幸祭では中御座神輿(素盞鳴尊)の先導をつとめるのである。