京都市伏見区 菱妻神社 | 京都からいろいろと

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菱妻神社(ひしづまじんじゃ)    延喜式内社??

 京都市伏見区久我石原町3-27

 

ご祭神  天児屋根命(あめのこやねのみこと)

 

 

 

 

由緒 (ホームページ等より)

 当神社は平安時代後期12世紀の初め、永久元年(1113)2月、右大臣源雅実(みなもとの

まさざね)公が、奈良の春日大社から天児屋根命(あめのやねのみこと)を勧請して、

「火止津目ひしづめ大明神」と崇め奉ったことに始まります。

御遷宮せんぐうの時には具仁ともひと親王をはじめ、源氏(久我家)・藤原氏の一族が牛車三両、

手輿数十丁を連ねて社参されたと旧記には伝えられています。

 御鎮座当時には、桂川の西に地境方三十九間、本社、拝殿、神楽殿、御垣の御門に続いて東西に

廻廊、南に一の鳥居、東に具平宮、一・二の鳥居の間には祭殿、御供殿、並びに久我公の成殿があり、

高殿の東に遥拝所および御垣、また、御祭道の巽(南東)に惣門があり、祭殿に並んで神主の宅が

あったと伝えられています。

神領として当地の近辺に五千坪の地があって田中には檜が生え、数十丈の藤がかかっていたと言われ

ています。この事からも当時の広大さがしのばれます。

しかし、当地は鴨川、桂川の洪水の被害をたびたび受け、長承3年(1134)には桂川の大洪水に

より社領三百歩が渕となるほどでした。そこで、久寿元年(1154)「火止津目」の字を、水徳が

あるとして「菱妻(ひしづま)」と改め現在に至っています。

 この頃には、親王宣下せんげの時に奉幣使が社参される例であったと言います。

また、本社より巽の惣門を奏聞口と言い、辰の上刻(午前7時過ぎ)まで人の通行を禁じていました。

これは南都より毎朝白い鹿が来てこの中を通り、卯の刻(午前6時頃)に南都に帰ったと言われたこと

によっています。

 なお、当社を式内社の簀原(すはら)神社ではないかとする学説もあります。

 

 当神社は、平安時代後期の永久元年(一一一三)二月、右大臣源雅実が奈良の春日大社から天児屋根命

を勧請して、火止津目(ひしづめ)大明神と崇め奉ったことに始まる。

 御祭神は、神に奉仕される神、学問の神、鎮めの神として広く崇められている。

 御遷座当時の広大な社領は、桂川・鴨川の氾濫の被害を度々受けたため、久寿元年(1154)に水徳が

あるとして社名を「菱妻」の字に改めたと伝わる。

 今日、五月に行われる「千種祭」は、少なくとも十五世紀にはほぼ現在の形で行われていたと考え

られている。中世には競馬や猿楽・田楽も盛んに行われ、盛大を極めたという。かつては巡幸に牛車

(御所車)のお供があり、五色の紙で作った造花(花巻)と幕で飾られた牛車には男の子が乗り、

「千種の花を手に摘み入れて御所へ参らせ 御所へ参らせ」と歌われた。

 久我の地は、荘園領主久我家の根本家領とし長く伝領されたこともあって、祭や村の在り方の様々な

点に中世以来の伝統を残す貴重な地である。

 京都市  (駒札より)