プロ野球、一発屋で終わった選手 | 女装男子かなこのブログ

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1年間だけ輝きを放った芸能人やスポーツ選手を俗に「一発屋」と言います。


過去には、プロ初タイトルをきっかけに飛躍した選手がいる一方で、タイトル獲得以後、目立った成績を残すことができず、1シーズンだけの輝きで終わってしまった選手がいます。


その一人が、1988年、18勝4敗、防御率2.60で最多勝と最高勝率の二冠に輝き、星野中日の初優勝🏆️に貢献した小野和幸投手です。


1981年、ドラフト外で西武に入団した小野投手は、イースタンで当時新記録の15勝を挙げ、“和製バレンズエラ”と呼ばれました。


バレンズエラとは、当時ロサンゼルス・ドジャースでプレーしていたフェルナンド・バレンズエラ投手のことです。


だが、当時の西武は先発、中継ぎ陣のいずれも充実していたため、「6、7番目の先発要員」は、雨で試合が流れるとスライドせずに飛ばされてしまい、なかなか結果を出せなません。


西武最終年の1987年も4勝11敗に終わりました。


翌1988年、平野謙選手との交換トレードで中日に移籍したことが、大きな転機となりました。 

(ちなみに平野謙選手もドラフト外入団だったので、結果的にドラフト外入団選手同士のトレードになった)


「どうしてもお前が欲しかった」と獲得理由を語った星野仙一監督(故人)は「(4勝11敗の)勝ち負けはひっくり返って当然のピッチャーだ」と期待し、開幕2戦目から小野投手を先発ローテの中心として起用しました。


「きちんとローテーションの中に入ってますから。またしばらく投げられなくなるという気持ちがなくなったのが大きい」と水を得た魚のように躍動した小野投手は、ボール1個分低めを取る新ストライクゾーンも、丹念に低めをつく投球の追い風となり、自己最多の18勝、チームも優勝と最良のシーズンになりました。


だが、翌1989年は1勝8敗、防御率6.20と大きく成績ダウン。


球速をアップしようと、フォームを改造したことが裏目に出たのです。


「当時はストレートが平均138キロ前後。142、3キロに増せば、もっとピッチングが楽になるんじゃないかと欲が出たんです。無理して投げた分だけフォームが乱れ、コントロールが甘くなりました」。


最大の長所だった「打者からボールが見づらいフォーム」も一転見えやすくなる結果を招き、5回を持たずKOされる場面が多くなりました。


投手は一度フォームを作ってしまうと、なかなか元に戻せません。


1990年に5勝を挙げたものの、それから再び勝てなくなり、ロッテ時代の1995年を最後に引退しました。


だが、二軍では格の違いを見せ、1992年に8勝0敗でイースタン最高勝率をマークするなど、歴代最多のファーム通算63勝(イースタン46勝、ウエスタン17勝)を記録しました。


小野氏は、この記録について「ひとつひとつ積み上げたこれらのすべてが、今の自分の財産になっていると実感しています」と語っていました。


オリックス入団2年目の2008年、15勝3敗、防御率2.51で新人王に選ばれながら、以後、忽然と輝きを失ってしまったのが、小松聖投手です。


小松投手は国士舘大学~JR九州から2006年ドラフト希望枠でオリックスに入団しました。


ルーキーイヤーは8試合の登板に終わったが、プロ2年目の2008年、小松投手はマウンド上で雄叫びを上げる気迫の投球とお立ち台での決め台詞「キター!」をトレードマークに、チームトップの15勝を挙げ、11年ぶり2位浮上の立役者となり、新人王に選ばれました。


翌2009年春、第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表入りをはたした小松投手は、2次ラウンド1、2位決定戦の韓国戦で2回2/3を無安打5奪三振の快投で勝利に貢献しました。


ここまでは順風満帆でしたが、シーズン開幕後、初の開幕投手を務めた4月3日のソフトバンク戦で5回7失点KOされて以来、別人のように精彩を欠いた投球が続きます。


同10日のロッテ戦も5回6失点で二軍降格。


前年の勢いを最後まで取り戻すことなく、1勝9敗、防御率7.09に終わりました。 


翌2010年は先発、リリーフで5勝を挙げたものの、8月末に右肋骨の疲労骨折で離脱。


その後、2012年6月25日の西武戦で695日ぶりの白星を手にし、「ホームでお立ち台に立って、『キター!』を復活させたい」と誓ったが、2014年以降は登板機会が激減し、4試合登板に終わった2016年限りで引退しました。


「(15勝を挙げた)2年目はメカニック的に、はまった感じがありました。ただ、フォームのなかでチェックポイントをしっかり持てていなかったんです。『ここがこうなっているからいいボールがいく』『これができていないから悪い』というポイントがなかった。(中略)2年目の時点でポイントを見つけられなかったことが、あとにつながったのはあると思います。


プロセスの大切さを痛感させられる話であります。


22歳で盗塁王のタイトルを獲ったのに、これが野球人生のピークになったのが、藤村大介選手(巨人)です。


2008年に熊本工業高校から高校生ドラフト1巡目指名で巨人に入団した藤村選手は、4年目の2011年5月に一軍初昇格をはたすと、二塁の定位置を獲得。


10月11日の阪神戦では、藤川球児投手から左中間にサヨナラ二塁打を放ちました。


同年は打率こそ.222ながら、28盗塁を記録し、平成生まれの選手では史上初、球団では1993年の緒方耕一選手以来の盗塁王に輝きました。


だが、背番号を54から0に変更し、さらなる飛躍を期した翌2012年は、寺内崇幸選手、古城茂幸選手の台頭で出番が減り、盗塁数も14と半減。


2013年以降も打撃不振から一軍と二軍を往復する日々が続き、2015年はケガの影響で一度も一軍に上がれませんでした。


そして、再び一軍出場なしで終わった2017年オフに戦力外通告を受けると、「トライアウトも頭にあったが、巨人を敵に回して戦う姿がイメージできなかった。小学生のころに、作文で巨人にドラフト1位で入って盗塁王と本塁打王を取りたいと書いていた。本塁打は打てなかったけど、夢は叶えられた。未練はないです」と巨人ひと筋を貫き、28歳の若さで引退しました。


日本ハム・工藤幹夫投手も一発屋に終わった選手でした。


工藤投手は秋田県立本荘高校から1978年ドラフト2位で日本ハムに入団、プロ1年目の1979年には高卒ルーキーながら開幕4戦目にプロ初登板初先発しました。

これはドラフト制後の高卒新人としては、当時の最速先発タイ記録でした。

1982年には14連勝をマークするなど、20勝4敗で最多勝、最高勝率、ベストナインに輝き、オールスター戦にも出場しました。

しかしその後は右肩を痛め、翌年は8勝止まり、1984年は一軍登板は1試合のみ、その後の一軍登板はなく、1988年限りで引退しました。

実働5年、つまり現役10年間で一軍出場はわずか5年、通算30勝22敗、防御率3.74、まさに太く短い野球人生でした。


通算30勝のうちの2/3の20勝を1982年の1年間で挙げたわけです。

有名なエピソードが、1982年10月に行われた西武ライオンズとのプレーオフでした。(当時のパ・リーグは前期と後期の2シーズン制)

工藤投手は約1か月前に右手小指を骨折。


全治4週間と発表されており、プレーオフの登板は絶望的だと思われていました。


ところが第1戦に先発しました。

当時の大沢啓二監督(故人)の指示でマスコミはもちろん、チーム関係者にも知られぬよう極秘調整していました。

この試合で工藤投手は6回0/3を投げ、無失点と好投したが勝敗は付かず、チームは敗れました。


しかし、第3戦に先発し完投勝利を挙げました。

この無理な起用がたたり、選手生命を縮めたのかもしれません。


今なら絶対ありえないような起用法です。


工藤幹夫さんは2017年、55歳の若さで死去しました。


中日・藤沢公也投手も一発屋に終わった選手でした。


中日入団以前の1969〜1976年まで、ロッテ、ヤクルト、近鉄、日本ハムからドラフト指名されながら、いずれも入団拒否。


中日からは1977年ドラフト1位指名を受け、1年後に入団。


その時既に27歳のオールドルーキーの1979年にパー厶ボールを駆使して13勝5敗、防御率2.82で新人王を獲得。


しかし、翌年は一転1勝15敗と急降下。


翌年以降、4年間で13勝しか挙げられず引退しました。


もう1人、今もファンの胸に焼き付いているのが横浜第一商業高校(現・横浜商科大学高校)、日本鋼管(現在のJFEスチール)を経て1979年のドラフト1位で日本ハムに入団した木田勇投手です。

ルーキーイヤーとなった1980年、木田投手の活躍はすさまじく、まさに快刀乱麻の言葉がふさわしかったです。


威力のあるストレートと大小2種類のカーブ、そしてパームボールを武器に40試合に登板して、22勝8敗4セーブ、防御率2.28、225奪三振、勝率.733を記録。


最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率と投手部門のタイトルを総ナメにするとともに新人王、ベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞、さらには新人選手としては史上初めてMVP(最優秀選手)も獲得しました。


まさにこの年80年は、木田投手のためにあったといってもいいでしょう。

その後も大いに期待された木田投手だったが、凋落は早かったです。


翌1981年こそ2ケタの10勝を挙げたが、前年の活躍には遠く及ばず、以後6勝、4勝、6勝、2勝と成績は落ちるばかり。


そして、大洋に移籍した1986年に8勝をマークしたものの、それ以後はさしたる活躍を見せることもなく1990年の中日を最後に現役を引退しました。

当時日本ハムの監督を務めていた大沢啓二氏は、後年、木田投手について聞かれると、「1年目にあれだけの活躍をしていれば、当然、疲れも相当溜まっていたはずだ。シーズンオフにはそのメンテナンスをちゃんとやって翌年に備えなくいけないのに、木田にはそれができなかった。2年目はオープン戦の時から悪い兆候が見えていてヤバいなあと思っていたよ。案の定、1年目のあの球のキレは結局戻らなかった。あれだけの素質を持っていたピッチャーが惜しいよなあ」と語っていました。


木田投手のプロ11年間の通算成績は273試合に登板し、60勝71敗6セーブ、防御率4.23。


1年目の成績からすると何とも寂しい限りという他ありません。


1971年広島にいた藤本和宏投手も一発屋でした。


この年10勝して、最優秀防御率(1点台!)。


彗星のごとく現れて、ノーヒットノーランも達成。


ところが、藤本投手の現役通算勝利数は10勝。


つまり、この年しか勝っていません。


規定投球回数到達もこの年のみです。


藤本和宏投手は八幡製鉄(現在の日本製鉄)から1966年ドラフト外で西鉄(現在の西武)に入団したが、一軍登板はなく1969年限りで戦力外になり、翌年広島に移籍しました。


1972年以降は再び成績を落とし、1974年限りで引退しました。