日本の鉄道電化 | 女装男子かなこのブログ

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モーターを持つ「電車」「電気機関車」が走るためには、電気の供給が必要です。


そしてこの電気の流れ方には、「直流」と「交流」の2つがあります。


鉄道用の電源としては、現在では直流と交流が共に使われていますが、それぞれで車両や機器類の仕組みも異なります。


これを統一してしまえばいいのに……と思われる方もいらっしゃるかもしれません。


なぜ、この2つの方式が併用されているのでしょうか?


直流とは、プラスからマイナスへ、一方向に電気が流れるものです。


身近なものでは、乾電池が直流電源となっています。


1800年代末期に世界で初めての電車が生まれてからしばらくの間、鉄道の電化方式は直流が一般的でした。


構造が単純な直流モーターを使用できるなど、交流に比べて鉄道車両側の機器設計を簡単にできたためです。


日本においても、1895年に京都電気鉄道が開業して以来、戦前の営業路線ではもっぱら直流電化が採用されてきました。


現在、首都圏、中京圏、関西圏の3大都市圏では、JR・私鉄とも直流電化が主流となっており、本州の都市部やほとんどの私鉄路線においては一般的な方式となっています。


電化路線では、直流・交流とも、電力会社などから給電される変電所より、架線や第三軌条などを介して電車へ電力を供給しています。


この供給電圧は、日本国内においては直流が1500ボルト、750ボルト、600ボルトの3種、交流は単相20000ボルト、単相25000ボルト、三相600ボルトの3種が、それぞれ主に用いられています。


直流電化では、架線や第三軌条などがプラス側となります。


この架線からパンタグラフなどの集電装置を経由して、電車へ供給されます。


マイナス側はというと、電車が走るレールがこれに相当します。


車輪からレールを伝って、変電所へと電気が帰るのです。


この際、レールは地面と完全に絶縁されてはいないため、一部の電流は地中へと漏れています。


この漏れ電流は、変電所付近で吸い上げられ、レールを経由した電流と同様に、変電所へと帰っていきます。


モノレールや新交通システムなどのゴムタイヤで走る鉄道では、車両には電気を取り込むプラスのパンタグラフと電気を返すマイナスのパンタグラフが付けられ、軌道桁にも車両に電気を送るプラスの架線と変電所へ電気を返すマイナスの架線が張られています。


ゴムタイヤ方式の札幌市営地下鉄は、東西線・東豊線ではマイナスのパンタグラフを案内用レールの両側に擦りつけるようにして取り付けているため、案内用レールの継ぎ目や駅の手前、カーブで一瞬離れてまた擦りつける時にスズメの鳴き声のような独特の音が発生します。


南北線ではマイナスのパンタグラフを案内用レールの上面に擦りつける方式のため、このような音はしません。


交流とは、一定時間ごとにプラスとマイナスが入れ替わる電流です。


身近なものでは、家庭用コンセントが交流を採用しています。


コンセントにプラグを差す際、どちらの向きでも機器が問題なく使用できるのも、電流のプラスとマイナスが入れ替わる特性のためです。


また、プラスとマイナスが1秒間に入れ替わる回数の単位を「ヘルツ」(Hz)と言います。


日本国内の商用電源では、糸魚川静岡構造線を境に、東日本が50ヘルツ、西日本が60ヘルツを採用しています。


これは、当時の東京側の電力会社がドイツ製の50ヘルツ発電機を、同じく大阪側の電力会社がアメリカ製の60ヘルツ発電機を、それぞれ採用したことが原因です。


この東西の周波数の違いが、現在も尾を引いているのです。


電力会社で言うと、北海道電力・東北電力・東京電力が50Hz、中部電力・北陸電力・関西電力・中国電力・四国電力・九州電力・沖縄電力が60Hzです。


引っ越しで電気の周波数が変わったら使えなくなる電化製品もあり、買い換えなければならないこともありました。


鉄道業界においては、交流電化は第二次世界大戦後まで主流となりませんでした。


第二次世界大戦前のドイツ周辺や北ヨーロッパでは、単相15000ボルト・16 2/3ヘルツによる交流電化が進められましたが、それ以外の国々へ広まることはありませんでした。


現在の商用電源周波数による交流電化は、同じくドイツのヘーレンタール線(Hollentalbahn)が始まりです。


当時のドイツ帝国鉄道は、この路線を20000ボルト・50ヘルツで1936年に電化しました。


第二次世界大戦終結後、この路線が走る地域を占領下に置いたフランスは、この交流電化の技術を吸収。


フランス国内で同一電圧による試験を実施した後、電圧を25000ボルトに昇圧した形で、パリ近郊を除く国内電化路線の主流方式としたのでした。


日本でも、このフランスの成功に影響され、1950年代より交流電化の試験を開始しました。


試験路線として仙台と山形を結ぶ仙山線が選ばれ、1955年に一部区間が交流で電化されました。


1957年には営業運転も開始しました。


日本で初めて交流電化が実用化された路線となりました。


現在では、全ての新幹線路線と、北海道、東北、北陸、九州のJR線のほとんど、JRの交流路線と直通運転している阿武隈急行線、仙台空港鉄道仙台空港線、新幹線開業によってJRから経営分離された7社線、そして後述の「特別な理由」によるつくばエクスプレスが、単相交流を採用しています。


電圧は、山形・秋田を除く各新幹線が25000ボルト、山形・秋田新幹線とその他の各在来線・私鉄路線が20000ボルトとなっています。


東海道新幹線は50Hzと60Hzにまたがっているが、全線60Hzで電化されています。


一方、北陸新幹線も50Hzと60Hzにまたがっているが、こちらは車両側で対応する方式です。


なお、ゆりかもめやポートライナーなどの一部新交通システムでも、交流電化を採用しています。


こちらは通常の鉄道とは異なり、三相交流(プラスとマイナスが入れ替わる「波」を1/3ずつずらしたもの。3本の電線で供給する)600ボルトという低圧での供給です。


1900年代前半、ヨーロッパでいくつかの鉄道事業者が三相交流による電化を試みていましたが、地上設備が複雑になる、などの理由により、幅広く普及することはありませんでした。


一方、現代の新交通システムでは、直流や単相交流よりも設備を簡素化できること、一般の電車のような架線を使用しないために地上設備がそれほど複雑にならないこと、などの理由から、一部路線では三相交流を採用しています。


交流電化のメリットとは、地上設備のコストを直流電化に比べて削減できることにあります。


架線へ電力を供給する変電所は、設置や維持に多くのコストが掛かるため、鉄道事業者としては数を減らしたいところです。


しかしながら、直流1500ボルトの場合、単純に数を減らすと、電力が電車へ届くまでに損失によって減衰してしまいます。


電車へ電力を供給する架線には、わずかながら抵抗があります。


そのため、変電所から電車までの間に損失が生まれてしまうのです。


中学理科で学習する「オームの法則」では「電流は加えた電圧に比例し、抵抗に反比例する」となっていますが、これに従うと、同じ抵抗値の架線を用いる場合には、電圧を上げた方が効率も上がるのです。


しかしながら、直流の場合、高電圧で供給された電気を使うことは容易ではありません。


20000ボルトのような直流高電圧を降圧する機器は鉄道車両に搭載することは難しく、高電圧の電力をそのままモーターへ供給することも性能上困難です。


一方の交流は、変圧器を用いれば電圧を変えられます。


鉄心にコイルを巻き付けるという単純な構造の変圧器で、20000ボルトのような高電圧でも、鉄道車両に適した電圧へ降圧できます。


そのため、20000ボルトという高圧の交流を採用することで、変電所から離れた場所まで低い損失で電力を送ることが可能となり、直流電化よりも変電所を削減できるのです。


ただし、重量のかさむ変圧器を始め、交流電車に特有の機器を搭載するということは、直流電車に比べ、車両の重量や製造コストが増加するというデメリットもあります。


多くの機器を搭載するためには車両の機器搭載スペースも必要となるため、現在に至っても1両編成の交流専用車両は一部の事業用電車や機関車を除くと実現できていません。


そのため、需要が少ない路線においても、交流電化区間では直流電車のような1両編成の電車列車を運転することはできません。


例えば、道南いさりび鉄道やえちごトキめき鉄道日本海ひすいライン、肥薩おれんじ鉄道では、日中は1両編成でも輸送力が十分なことから、全線電化にもかかわらず電車を導入せず気動車になっています。


このほか、高電圧で送電する交流電化の場合、周辺設備へ電流が流れないように取る間隔「絶縁距離」を、直流電化の場合よりも広く設定する必要があります。


そのため、地下区間で交流電化を採用した場合には、広く取る絶縁距離の分だけ直流電化より建設コストが増えることとなります。


これらのメリット・デメリットにより、東京や大阪など、多くの車両が必要な都市部では、変電所のコストが高くとも車両の製造コストを下げられる直流電化方式が、現在でも主流となっています。


一方、戦後に電化が進められた北海道、東北、北陸、九州では、車両が高価となることと引き換えに、地上設備のコストを下げられる交流電化を採用しました。 


なお、交流電化区間と直流電化区間を直通するには、双方の電源方式に対応した「交直両用車両」が必要となります。


このタイプの車両は、双方の電化路線を走れる一方で、両方式に対応した機器・回路を持つために、交流専用車や直流専用車よりも高価となる傾向にあります。



直流電車のパンタグラフ周り(JR西日本223系)
パンタグラフの周囲は避雷器と主ヒューズ以外に目立った機器類がなく、すっきりしています。

交直流電車のパンタグラフ周り(JR西日本683系)
パンタグラフの周囲には交直転換器や空気遮断機などの機器類があり、パンタグラフやケーブルの取り付け碍子も大型でものものしいです。


交流電化区間と直流電化区間の境界には、当然のことながら、双方の電化方式が接する場所があります。


しかし、交流電化の架線と直流電化の架線は、直接接続することはできません。


そのため、現在の日本の鉄道では、両者の境界に電気が流れていない区間「デッドセクション」を設けて対応しています。


デッドセクションは、交流区間と直流区間のそれぞれの架線の間に、FRPなどの絶縁体を使用した数十メートル程度の「セクションインシュレータ」を挿入したものです。


交直両用車両は、デッドセクションの通過にあわせて交流用回路から直流用回路に、あるいはその逆に切り替えることで、双方の電化方式を走行できるのです。


このデッドセクションを通過する際には、架線からの電気を絶ってしまうため、旧型の車両では車内の電気が一部を残して消えてしまいます。


有名な箇所では、かつては常磐線の取手~藤代間や北陸本線の敦賀~南今庄間などで体験できましたが、現在はこの区間で電気が消える車両は無くなりました。


今では、山陽本線の下関~門司間、七尾線の津幡~中津幡間でこれを体験することができます。


羽越本線の村上~間島間では、特急のみが電車で普通列車は電化区間にもかかわらず全列車が気動車で運転されており、現在までこの区間を通る普通列車用の電車は一切投入されていません。


北陸本線の糸魚川~梶屋敷間では、えちごトキめき鉄道日本海ひすいラインに移管された後、

輸送量が少ないことから電車は導入せず気動車になり、この区間では電気が消える車両は見られないが、あいの風とやま鉄道が所有する413系電車で運転される臨時急行があり、電源切り替え時に室内灯が消えるのを体験することができます。


東北本線の黒磯駅ではかつて、列車が停車中に前途の電気方式に切り替える地上切り替え方式を採用していました。


仙石東北ラインでは、東北本線が交流、仙石線が直流と電化方式が異なるが、連絡線は非電化としてハイブリッド気動車で直通運転しています。


なお、近年の鉄道車両では、デッドセクション通過中は蓄電池から電気を供給するようになっており、走行中に電気が消えることは無くなりました。


ただし、交直両用車両が始発駅で出発準備中に、交直切換器を試験することがあり、この際には車内灯が消えた状態を体験できます。


直流区間と交流区間の境界に限らず、交流電化区間においても、変電所から供給する電源の境界において、「交交セクション」とよばれるデッドセクションが設けられます。


これは、交流の特徴である、プラスとマイナスが入れ替わる波の周期(位相)がズレていることがあるため。架線に電気を供給する変電所によって位相にはズレがあるのですが、両者をそのまま接続すると、大電流が流れて事故が発生することがあります。


そのため、鹿児島本線春日~大野城間など、変電所の境界にあたる部分には、交流同士のデッドセクションが設置されています。


東京から各地へ延びる主要路線のうち、西へ延びる2線、東海道本線の東京~沼津間と中央本線の東京~甲府間は戦前に電化されていましたが、東北・信越方面の路線、東北本線と高崎線、上越線、信越本線、常磐線は、都市部で通勤電車が走る区間や、勾配が厳しく電気機関車を用いる区間を除き、電化されていませんでした。


東京から北方面各線の電化が進むのは戦後のことです。


例を挙げると、東北本線は1968年に東京~青森間の全線電化が、常磐線は一足早く1967年に日暮里~岩沼間の全線電化が、それぞれ完成しました。


電化された区間のうち、列車本数の差などを勘案して、東北本線は黒磯~青森間が、常磐線は取手~岩沼間が、それぞれ交流電化となりました。


ここで不思議なのは、常磐線の電化区間です。


1961年に取手~勝田間が電化された際には、新型電車の401系が投入されています。


まだまだ客車列車が現役だった当時、新型の電車を投入するということは、1962年に111系・113系が投入された東海道本線や横須賀線、1963年に115系が投入された東北本線や高崎線と同様の需要があったということです。


相当の需要が想定されるのであれば、多くの車両が必要となるため、直流電化とした方が有利です。


それなのになぜ、常磐線では交流電化が採用されたのでしょうか。


その答えは、茨城県石岡市柿岡に所在する、気象庁の地磁気観測所です。


この観測所では、地球が生み出す磁場である地磁気を観測し、地球の状態監視や航空機などの安全運航確保、無線通信障害の警報などに活用しています。


ここでの地磁気の観測に対して、鉄道の直流電化は外敵といえます。


先述したように、直流電化方式で電車から変電所へ帰る電力は、一部がレールから地中へと漏れています。


この漏れ出した電力が、地磁気へと影響を与えてしまい、正常な観測を妨げてしまうのです。


なお、交流電化の場合も直流電化同様、一部の電力はレールから地中へ漏れ出しています。


しかし、地磁気へ与える影響という面に限れば、交流では電化方式で対策を取りやすいため、直流ほどの問題とはなりません。


地磁気観測所が筑波山麓にある柿岡へと移転したのは、1913年です。


もともとは東京市内(当時)で地磁気を観測していたのですが、直流電化の市電(当時)が開業したため、観測の妨げになってしまいました。


これを解決するため、東京へのアクセスが良く、かつ周囲にも十分な場所が確保できる柿岡へと移転したのでした。


時が下り、常磐線取手以北の電化が検討された際、あわせて地磁気観測所の移転も検討されたといいます。


しかしながら、地磁気は同じ場所で継続して観測することが重要で、簡単に移転することはできませんでした。


また、同時期に地磁気へ大きな影響を与えない交流電化の実用化に目途が付いたため、移転ではなく交流電化が選択されたのでした。


常磐線の取手以南を走る「快速電車」では、通勤ラッシュの混雑が激しくなるのにあわせ、4ドア・ロングシートの103系が投入されました。


一方、取手以北へ直通する「普通列車」では、401系やその改良型である403系、415系が主力でした。


これらは3ドア・セミクロスシートが主流で、激しいラッシュ時に向いた車両とは言えませんでした。


常磐線沿線自治体などでは、1987年に「茨城県南常磐線快速電車延伸促進対策協議会」を設立し、「快速電車」の取手以北への延伸をJR東日本に要望。


これを受けて1995年より4ドア・ロングシートで交直両用車両のE501系が投入されましたが、こちらは60両のみの製造に終わってしまいました。


取手以北へ向かう車両が改善されるのは、2005年に4ドア・セミクロスシートながら通勤需要にも対応したE531系がデビューしてからです。


現在の常磐線は、取手駅までの列車はE231系、取手駅より先へ走る列車はE531系、という2種類の列車が走る路線となっています。


地磁気観測所では、直流電化の影響は半径35キロ程度に及ぶとしています。


そのため、この円の中を走る常磐線はもちろん、2005年に開業したつくばエクスプレスでも、守谷以北では交流電化となりました。


また、取手側で多くの列車を運行している関東鉄道常総線では、かつて電化を検討していたことがありましたが、路線が地磁気観測所の影響を受ける範囲にあるため、直流電化は断念しました。


交流電化も車両コストが増えるために採用されず、現在も非電化路線となっています。