日本のメートル法普及はトヨタから | 女装男子かなこのブログ

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トヨタ自動車の創業者である豊田喜一郎さんが生まれたのは1894(明治27)年6月11日です。


日本の自動車産業に与えた影響は周知の事実ですが、喜一郎さんがもうひとつ生活や産業に大きな貢献をしたことがあります。


それは、量衡法改正に伴い、メートル法を率先して推薦したことです。 


距離や重さを表すメートル(m)、キログラム(kg)、電流のA(アンペア)といった、日常生活で単位は「国際単位系(SI)」と呼ばれます。


これらが国際的な単位として認められたのは1954(昭和29)年のことですが、国や地域ごとに古くから使われてきたローカルな単位も存在します。


日本の場合は尺(しゃく)や貫(かん)などが、これに当たります。


こうした単位をめぐって、1924(大正13)年7月1日、日本のクルマ産業界が大きく揺れたことがありました。


「すべての単位をメートル法に一本化する」という改正法が施行されたからです。


日本は、それまで国でよってまちまちだった長さや重さの単位をメートルやキログラムに統一することを目指す「メートル条約」に1885(明治18)年から加盟していました。


しかし、当時の日本はまだまだ伝統的な「尺貫法」に慣れ親しんでおり、「尺貫法を捨てるのか」と大きな反発があり、完全に変更できてはいませんでした。


また、イギリスと関係が深い当時の海軍は、同国の伝統的単位である「ヤード・ポンド法」を使っており、同様にイギリスやアメリカから工業機械を輸入していた製造業もヤード・ポンド法だったため、日本ではしばらくの間、陸軍はメートル法、海軍はヤード・ポンド法、一般的な場で使うのは尺貫法といった具合にバラバラの単位が使われることになってしまいました。


この状態に問題がないわけはなく、1904(明治37)年2月から翌年9月まで続いた日露戦争では、今までとは比べ物にならない物資を必要とした戦いとなったため、前線での弾薬不足も頻発。


その原因のひとつとして、陸軍向けの弾薬をメートル法で、海軍向けをヤード・ポンド法で作っていたため混乱が生じという問題もありました。


さらに、第一次世界大戦で直接的な戦場に日本はならなかったものの、その分、欧州で使われる物資の製造などを担当し、そこでも同様の問題が発生してしまいます。


さらに第一次大戦後、大量生産の時代が始まると、この問題は国の産業発展の妨げにもなると、学界や産業界からの説得もあり、当時の原 敬首相も単位統一に動き出します。


原首相らが、海軍を説得してできたのが単位をメートル法に一本化する改正法「大正10年4月11日法律第71号 度量衡法中改正法律」でしたが、製造業の中には機械を買いかえたり、図面を全部引き直したりしなければいけない都合上、完全には不可能という意識が当時強かったそうです。


のちにトヨタ自動車となる豊田自動織機製作所も状況は同じで、1933(昭和9)年に自動車の製造を始めた頃は、さまざまな分野の職人が関わっていたため、ヤード・ポンド法や尺貫法を使っていた図面もあったそうです。


しかし、当時社長だった喜一郎さんは、道具や工具、ゲージ類をすべて交換し、全図面を描き直すという大規模な改革を断行しました。


もちろん、途方もない費用や労力がかかる一大事であったわけですが、喜一郎さんは、自動車産業がいつまでも「インチ」で進むことは国家として非常な損失であると判断し、「いかなる犠牲を払ってでもメートル法にしなければ、将来の国民に対して申しわけない」と訴えたそうです。


その後、世間ではじょじょにメートル法が浸透していきます。


古くからの単位もまた、お酒やお米などを測る単位である「合(ごう)」や家の大きさを表す「間(けん)」や「尺(しゃく)」などが残ってはいますが、公の場で使われる単位はおおむねメートル法で統一されていきました。


現在、私たちが単位の取り違いなどで混乱しないのは、喜一郎さんや当時の経営者や識者の人たちが未来を考えて、愚直に動いてくれたおかげでもあります。