歴史英雄譚シリーズ 楠木 正儀 | Model world

Model world

素晴らしい模型の世界に魅せられました。

急に始めてみた訳だが、磯風のデカール探しがこの記事の発端だと解った方はマニアックだ口笛

 

さて、早速第1段な訳だが、日本史上でも希代の名将であることは疑いない 楠木 正儀(くすのき まさのり)公を考察してみる。

楠木正儀(くすのき まさのり)は、言わずと知れた、南北朝時代の北朝方を代表する武将で、父楠木正成(くすのき まさしげ)、兄楠木 正行(くすのき まさつら)らの愚行によって滅亡の危機に瀕した一族郎党を立て直し、室町幕府の要職に就いて、事実上南朝滅亡の切っ掛けとなる拠点を陥落させた。

後醍醐天皇以来の南朝傀儡政権を滅亡に追い込んだ幕府側の立役者であり、楠木家の最盛期を築いた。

正儀は、室町幕府3代将軍足利義満(あしかが よしみつ)に仕え、「槍(やり)」という武器を初めて戦術に取り入れたことで有名である。更に兵站、調略、そして後詰など、その後の我が国の中世野戦における戦略、戦術上の基を確立させた日本史上稀に見る名将でもあった。

少し遡った南北朝が始まった時代、楠木正儀は、父正成(まさしげ)、兄正行(まさつら)の後を継いで、絶滅寸前の楠木一族棟梁の座に就いた。

正儀は、父や兄が時代の進化を否定し、誤った忠義一辺倒によって領民一族郎党を危機に陥れたと早くから否定的に考えていたようである。それは、時代錯誤な天皇一子による強権支配が世相と大きく乖離したものであり、後醍醐天皇の考え方が如何に『悪』そのものであるかを身をもって知っていたが為であろうと考えられている。

従って当面の間は南朝方の武将を率いて奮戦したが、南朝方の諸臣らに対して少しずつ不満を溜め込んでいったのは寧ろ自然であった。

それでも、当時南朝方主力の武将、足利直義(あしかが ただよし)、足利忠冬(あしかが ただふゆ)、吉良満貞(きら みつさだ)らと共に 南朝最盛期 を築き上げ、一時的に南北朝を統一して幕府の勢力を力でねじ伏せた実績を作っている。

しかし、あともう一歩というところで公家らを中心とした南朝強硬派によって完全和議成立直前で邪魔をされてしまい頓挫したことに強い恨みを抱くようになる。

庶民の苦しみ、疲弊を省みない南朝諸臣に強い不満を抱き、同じ考えであった足利直義が南朝方の傀儡天皇を討つなら、楠木一族挙げて自分も南朝軍と戦う、と口走ったと噂がたつほどその怒りは凄まじいものだったそうだ。今風に言えば完全にブチ切れて、その怒髪は天を衝くほどであったという。

それでも再び南北に分かれて争いを始めた際、やむを得ず南朝方の主将 足利忠冬の副官として軍を率いて転戦したが、ついに北朝方は、足利忠冬の父である室町幕府将軍 足利 尊氏(あしかが たかうじ)自らが大軍勢を率いて親征を始めたため相次ぐ戦闘で敗北していった。

足利尊氏が天寿を全うして将軍職を継いだ長子 足利義詮(あしかが よしあきら)の親征もつづき、それも凄まじいものであったが、あともう少しで南朝拠点が陥落するという危機に至る。
そこを楠木正儀の北朝方への調略で、何とかこれを防ぐことに成功する。

逆に、楠木正儀は、南朝諸将の一人である細川清氏(ほそかわ きようじ)らと共に京都へ進軍し、ついに南朝方最後の京都攻略に成功する。

この時、幕府軍との戦闘は起こらずに京都を奪還できたが、後世に有名な『槍(やり)』を装備した歩兵を採り入れ、斬新な陣形を用いた戦術を導入した。幕府軍はその異様な軍勢を見て犠牲を恐れたため、戦わずに京都から撤退したと言われている。

しかし、正儀自身兵站を無視した戦い方に猛烈に反対しており、受け入れられなかったが為に、仕方なく従軍して京都を攻略した、というのが実態であった。当に父 正成(まさしげ)と同様であった。

南朝方は正儀を次第に遠避けるようになり、結果的に正儀は南朝方で完全に孤立した。

一方室町幕府では、第2代将軍 足利義詮 が亡くなり、第3代将軍 足利義満(あしかが よしみつ)が就任した。

楠木正儀は、ついに北朝方へ出奔する決意を固め、将軍義満に書状を認め、郎党私兵諸共闇夜に紛れて室町幕府方へ出奔する。

しかしそれを許さぬ南朝方は追討軍を起こし、正儀を追撃して敗走させた。

これを室町幕府軍の赤松光範(あかまつ みつのり)と細川頼基(ほそかわ よりもと)が救援に駆け付け、ついに楠木正義は一族領民領土全てを以て北朝方へ味方することになる。

善悪の判断無く忠義一心で南朝に味方してきた楠木一族郎党であったが、棟梁である正義の判断に反対する者は無く、周辺環境の変化を読み解き、如何に危機を乗り越えるかを判断した結果は多くの者に支持された。

1373年(文中2年:応安6年)8月10日。
征南将軍 細川氏春(ほそかわ うじはる)を総大将としたが、正儀を実質の総大将として赤松光範と共に南朝首都天野行宮を陥落させた。楠木一族の南朝武将 橋本正督 も北朝に投降したことで、正儀は更に北朝で勢力を強めることになった。

ところが、橋本正督は何度か幕府に対して反乱を起こし、正儀の同族というところで討ち辛かったこと、その後ろ盾の管領 細川頼之(ほそかわ よりゆき)に室町幕府御家人の不満が集まったこと、成人した将軍 義満 も 正督追討を承認したことで、頼之はとうとう失脚して管領の地位から転げ落ちることに成った。その同年7月17日、ついに橋本正督が山名氏清に討たれ、正儀は今度は北朝内で孤立していった。

その一方で、楠木正儀らの攻撃によって拠点を失った南朝は完全に没落していた。
拠点を失い、完全に弱体化して幕府の脅威ではなくなった南朝では皮肉なことに和平派が主流になった。

この実態を踏まえ、楠木正儀は再度南朝へ出奔し、北朝との融合を説得し続けたという。

その後は日本史の示す通り、北朝が南朝を吸収する形で南北朝は統一された。

wikiより:

楠木正儀は、史料からは温厚で誠実、恩情のある人柄だったと見られ、敵味方を問わず他人を助けようとする有情で慈悲深い人格者として描かれている。

存命時は能力・人格・功績を高く評価され、その弱小な血統に対し、日本史上全体でも他に豊臣秀吉くらいしかないほど数例あるかない異例の栄達を遂げた(→北朝での待遇、→参議任官)。

今日では南北朝時代を代表する名将であり、且つ重要人物であり、南北朝統一の中心的存在であるという評価がなされている。


おまけ:
あずなぶる的に南北朝時代の諸将を評価する武将は、
幕府を立て直そうと自らの全てを犠牲に奔走した
・金澤 貞明(鎌倉幕府第15代執権)

府中分倍河原の戦いで1333年、事実上最期の鎌倉幕府軍と共に壮絶な討ち死にを遂げた
・赤橋 守時(鎌倉幕府第16代執権(最後の執権))

源氏の最名門として、全国の期待を一身に集めて輿望に応えた
・足利 尊氏(北朝:室町幕府初代将軍)

九州にはびこった南朝方賊徒を壊滅に追い込んで九州を統一した
・今川 貞世(北朝:室町幕府九州探題)

事実上南朝を滅亡に追い込んだ
・楠木 正儀(北朝:室町幕府御家人)

くらいだ。
この度、主として楠木正儀を取り上げたが、南朝にほぼ蹂躙されていた九州の賊徒を、本領遠江の国衆や、安芸国衆の毛利元春、吉川経見、熊谷直明、長井貞広、山内通忠らと共に瞬く間に平定し、室町幕府の安寧に大きく寄与した今川貞世(いまがわ さだよ)も南北朝時代を代表して特筆すべきであろう。

一方で評価しない人物としては、
平 盛宗 の暴走を止めることが出来ず、倒幕の反乱を全国各地で起こされた
・北条 高時(鎌倉幕府第14代執権(得宗家))

北条一族を凌ぐ勢力を誇って鎌倉幕府を著しく傾けた、北条得宗家の家宰
・平 盛宗(たいらの もりむね:長崎円喜:南北朝5大悪)

過ぎ去った過去の古い理想を追い求め、全国民に過酷な苦労を強いて苦しめた
・後醍醐天皇(南朝:天皇 南北朝5大悪)

形式や上辺に拘って多くの人命を失うきっかけを最も多く作った
・坊門 清忠(南朝:南北朝5大悪)

こんなところか。
南北朝時代は、戦国時代に活躍する武将達のご先祖にあたる方々の活躍も垣間見ることが出来るため、戦国の世を歴史的視点で正しく考察する上で大変重要な時代だと考える。

 

と数値系脳な私でも、頑張れば書けるものだ。