【歴史探訪】『渋谷』発祥の地 | Model world

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素晴らしい模型の世界に魅せられました。

急に取り上げる歴史探訪。

我が家の大奥様のご両親が長年住んで来た東京都渋谷区円山町近辺にある神泉を中心にしたご紹介。

 

谷について

渋谷の周辺はとても理解しやすく、説明し易い地形になっている。
渋谷の土地についておおまかに説明すると、『Y』字状に谷があり、現在谷底を右側に鉄道(埼京線/山手線)が走っている。

『Y』字の谷が3つ合流するあたりの少し南を左右東西に道が跨り、右を宮益坂、左を道玄坂と呼び、それぞれ高台を登っていくように道が続いている。

この『Y』字を跨ぐ道を、「矢倉沢往還」と昔は呼んでおり、東海道の脇道として江戸の中心から富士山の麓まで延びており、そこから東海道へ接続していた。
現在国道246号線と呼ばれているものである。

この渋谷という土地(谷)は古くからは人もあまり住んでおらず、『Y』字の谷底を北から南へ流れる渋谷川を中心に、わずかに田畑が点在する程度であった。

1600年代の江戸期に入ると、関東平野を流れる荒川、利根川の大改修や、埋め立てによる激変が生じたが、渋谷はその縁からも遠く、変らず寂びれた辺境の地に過ぎなかった。

渋谷が変わる転機となったのは、庶民の山岳信仰に伴う冨士講(「講」とは今風に解釈するとクラブ活動)が流行しだしてからだ。

渋谷の『Y』字が谷であり、その谷によって隔てられた大括りな高台が3つに分けられる。
東、西、北側の高台だ。

その内、左側つまり西側の高台の一番高い所に西に更に小さな谷間があり、窪んでいるところがある。

道玄坂を登り切ったところから少し入り込んで「神泉」側に降りていくところがその窪みだ。

実はその「神泉」という地名からも判る通り、ここに豊富な水が湧き出ており、縄文期よりアイヌの人々も住んでいた形跡が残っている。

(日本各地で隠れて生活していたアイヌの方々の為に長野県長野市やオタリ村などはアイヌの人たちの人権を守る為の相談窓口まで開設していますねぇ)


その豊富な湧水で湯屋を営む者が現れ、「弘法の湯」と呼ばれていた。
親しまれていた湯屋は、つい最近、1976年まで、存在していた。
名前から弘法大師「空海」に関係するかは知らないが「空海」自身には関係しないであろう。

いずれにしてもこの「弘法の湯」は、江戸期になると、江戸中心に住む庶民の人々が富士山へ向かう最初の宿場町である「原宿」から近く、「弘法の湯」に浸かり、身体を清めてから目指す、というパターンが流行し始めたことで、「神泉」が活況を呈するようになる。これを渋谷の街としての発祥起源とする場合が多い。

この「神泉」から北西側に開けた場所があり、ここが馬場として整備され、駒場として今でも地名が残る。東京大学駒場キャンパスもこの高台に存在する。

馴染みのあるところでは童謡 「春の小川」 はこの場所を謳った童謡だ。

 

富士講をもてなすための旅籠が出来て、食事を提供する店も出始めた。
渋谷はこの道玄坂を上まで登った丘あたりを中心にして人々が集まりだす。

富士講が廃れだした江戸末期になると、江戸から少し離れていることから、世間から取り残され、再び荒れ始めたが、明治に入ると鉄道が渋谷にも伸びてきた。所謂現在の山手線/埼京線である。

神泉北西の馬場は、薩摩鍋島公爵の農園となった。

陸軍が創設されると直ぐに、『Y』字の北側の森林は伐採されて整備され、代々木練兵場となった。ここで訓練を終えた兵士達の社交場として、「弘法の湯」も再び息を吹き返し、付近には兵士を相手にした割烹なども徐々に増え、「神泉」を中心に渋谷の街が一大社交場として賑やかになってきた。

明治の終わりには、代々木練兵場の北側に明治天皇を祀った明治神宮が出来ると、渋谷は更に活況を呈していくが、世の理に倣い、徐々に谷底の渋谷駅近辺に繁華街は移ってしまった。

『Y』字の東側の丘の上、宮益坂から登って「原宿」方面に抜けるところには青山学院大学が開学し、渋谷から六本木方面に伸びる道沿いには実践女子大学、そして國學院大學が開学した。

「原宿」は、今現在青山学院大学を246号沿いに東北東へ進んだ北青山と南青山周辺のことを本来指し示す。

つまり、この絵図の北東(右上)の原宿は今現在道の右手を南青山、左手を北青山としており、尾根から下って北西に明治神宮表参道が伸びており、『Y』字の北側(上)の明治神宮に接続する辺りを現在原宿としている。

 

以上、渋谷発祥の地として、神泉を中心に、古くはアイヌの方々の水飲み場、そして最近までは湧き出る水で湯屋を中心に栄えてきた歴史を辿ってみた。

 

地図がへたくそなのは十分わかっているけど突っ込むところはそこじゃないから宜しく。