5年間にも及ぶ小泉内閣の構造改革で、アメリカがほしいもの(規制緩和による利権)をほとんど全部あげてしまい、安倍晋三が首相になるとアメリカにあげるものがなくなってしまった。
ブッシュは小泉のことを「日本の歴史上、小泉首相ほど偉大なる首相はいない」などとオーバーに褒めた。
これは、小泉がブッシュに忠実すぎるほど忠実だったからだ。
小泉はブッシュの褒め言葉を求め、しきりにブッシュに会いたがったようだ。
ところが、後継者の安倍にはブッシュを喜ばせるものがなくなった。
ところが、後継者の安倍にはブッシュを喜ばせるものがなくなった。
このためブッシュは安倍にはきつかった。
しかし、ブッシュが安倍をつぶしたということになったら大変なので、根回しをして抑えたようだ。
その後、安倍は病気と言って長期療養をしたが、これでブッシュの圧力説は消えた。
同じように福田康夫首相もブッシュを喜ばせる材料がない。
つまり小泉が「医療も、保険も、通信も、金融も差し上げます」と全部出してしまったから、福田には何もない。
郵政民営化、医療改悪、日本の会社を差し出す三角合併など、アメリカのための法制度が横行する国になってしまった。
事実はブッシュの褒め言葉は反対で、日本国民からすれば、小泉は「史上最低最悪の首相」だった。
歴代の自民党政権は、アメリカに言われれば言われたことをやってきたが、しかし、橋本にしろ、小渕にしろ、それなりの抵抗をした。
歴代の自民党政権は、アメリカに言われれば言われたことをやってきたが、しかし、橋本にしろ、小渕にしろ、それなりの抵抗をした。
少なくとも、小泉政権のように日本をまるごとアメリカに売り渡すようなことはしなかった。
日本をまるごとアメリカにゆだねる方向への道筋をつけたのは、実は小泉の前任者の森喜朗だ。
森は、2001年3月19日の日米首脳会談でアメリカにすがりついた。
その経過は、まさに森内閣の政権維持のためだけのものだった。
当時、森政権の支持率は惨憺たるものだった。
当時、森政権の支持率は惨憺たるものだった。
そこへ「えひめ丸」という愛媛県の高校生の練習船がハワイ沖でアメリカの潜水艦との接触事故で沈没し、十数名が亡くなるという悲劇が起きた。
このとき森喜朗はゴルフ場にいて、なかなか出てこないので、某大新聞の記者がかねて噂の「賭けゴルフをしているのでは」と聞いたところ、事務所が「そのとおりです」と答えというのでマスコミは大騒ぎになった。
当時、ポスト森をめぐって旧竹下派のエースであった野中広務を担いで政権に挑戦する動きがあった。
当時、ポスト森をめぐって旧竹下派のエースであった野中広務を担いで政権に挑戦する動きがあった。
その動きの中心にいたのが鈴木宗男だった。
森は追いつめられ、「日米首脳会談をやれば、米国政府が警戒している野中の挑戦を止めることができる」という側近のシナリオに乗って、森は早速日米首脳会談を申し込んだが、外務省の動きは鈍かった。
森は、仕方がないので、外務省を通さず、ある人物をワシントンに派遣して現国務長官のライスに日米首脳会談を依頼すると、ライスはその場で大統領に電話して話をつけたという。
森は「会いさえすれば政権抗争に勝てる」と言われて、ワシントンに出かけていった。
そこで、ブッシュに不良債権処理、すなわち日本の金融改革を要求された。
何と、森はこれを丸呑みした。
何と、森はこれを丸呑みした。
彼ははじめの記者会見で「不良債権処理は半年で全部片付ける」と言ってしまった。
森がまったく何もわかっていないことがすぐに暴露された。
その後、「あれは感想を言っただけで、約束をしたわけではない」と前言を撤回をしたが、そのくらい何もわからないままに、アメリカが日本の金融を食い物にするための不良債権処理、金融改革を約束してしまったのだ。
その後を引き継いだ森派の小泉が、最初のブッシュとの会談で念を押されて「森が約束したことを全部引き継ぎます」と約束した。
その後を引き継いだ森派の小泉が、最初のブッシュとの会談で念を押されて「森が約束したことを全部引き継ぎます」と約束した。
森が100%アメリカに屈従する道を開き、小泉がこれを実行した。