その画家はプレアデスから来たのか?祈りの画家ヴァン・ゴッホ | 森の夢~星が歌うとき森は静かに目をとじる

森の夢~星が歌うとき森は静かに目をとじる

*わたしは自分を許し、受け入れ、そして信じる*

なあんて、センセーショナルな雑誌の見出しっぽいタイトルですが(笑)
私が偏愛しているヴァン・ゴッホのホロスコープを読んでみます。





日本にはゴッホのファンが多いと言われますが、
嫌いという人も同じぐらいいる気がしますね~。


私は誰が何と言おうと、ラッセンよりゴッホが好っき~ぃラブラブ





フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh、1853年3月30日 - 1890年7月29日)
オランダ出身の画家です。


誕生数14/5 運命数55/1

牡羊座生まれ。



ゴッホのホロスコープ、以前にも読もうと試みていましたが、
ホロスコープって裸以上の情報が現れている気がするんです。

好きな人のホロスコープは直視できない(苦笑)


私はなぜか、男女の別なく牡羊座生まれが発するエネルギーに
引きつけられる習性がある。

それだけでなく、私の月はゴッホの土星とリリスに、
私の火星はゴッホの太陽に、私のMCはゴッホの金星火星に(以下省略です)
と、えげつないぐらいに重なっているのです。

もうこりゃ、惚れるしかない?!(笑)


そういうわけで、かなり暑苦しく長い記事になっていますので、
休憩しつつお読みくださいあせる


最初は「画家としてのヴァン・ゴッホ」を読みます。



ホロスコープはこちらからお借りしました。







魚座から牡牛座に天体が集中しています。

風の星座がゼロですねあせる

思い込みつよそー。




あらあ、太陽(人生の目的)がノーアスペクト?!

山羊座12度のカイロン(キロン)とスクエア(90度)してはいるけれど。

占星術師さんは「太陽が弱い」なんて言い方をされますね。




ちなみにカイロン(キロン)山羊座12度のサビアンシンボルは「火の崇拝者」





画家としての才能を表す、金星は魚座の28度。


ゴッホの金星のサビアンシンボルがいいんですよ~。
『プリズム』


目に見えない白色光はプリズムを通過することで、
光の色を見せてくれます。

ゴッホの金星はその役目をしていたラブ




ところで、ゴッホが画家を目指したのは
25歳を過ぎてからなんです。

それ以前は画商を7年ほど、教師を半年ほどして、
その後は父親と同じプロテスタントの牧師になることを
目指していました。



ゴッホの月は射手座にあり、木星とコンジャンクション(合)。

射手座は宗教も現します。

ゴッホの出自からすれば、彼のベースに宗教があることは
誰が見ても明らかですね。


木星は射手座の守護星ですから、ホームグランドにいるこの木星は
パワーがあります。

この月と木星は後半の度数にあるので、
ストイックに求道していく感じです。



射手座の月だから楽天的なところもあったのかしら?


月は魚座の金星、火星とスクエア。

うむ。人との距離感を保つのが苦手だったかな。

本人は親しくなりたいだけなんでしょうけど、
想いが強すぎて圧がすごくなっちゃうのかも。

風星座がない(思い込みが強い)のも影響していそう。




かなり熱心に伝道活動をしていたそうですが、
その様子があまりに極端な行動であったことから、
教会からは認められず、聖職者への道は断たれてしまったそうですショボーン


批判されたその行動とは、貧しい人たちに自分の食べ物や
衣服を分け与え、ゴッホ自らは貧しい身なりで伝道を行っていたため、
聖職者の威厳を損なう、という理由だったとか叫び



ゴッホのアセンダントは蟹座なので、
生来の気質として面倒見が良いほうでしょう。

ゴッホの伝道活動はイエス・キリストに倣っていたのかもしれません。


伝える力の水星は牡羊座25度。

水星と月がトライン(120度)なので、
思いつきで猪突猛進、伝えたい気持ちが過剰になってしまったのでしょうね。



『風景』1881年4月


『屋根』1882年7月



聖職者の道を断たれた失意のゴッホに、画家になることを勧めたのは
弟のテオだったと言われています。

テオは、ゴッホにとって唯一の理解者でした。

テオの物心両面の支援がなかったら、
10年間も絵を続けられなかったでしょう。



その頃、空の天王星がゴッホの海王星とオポジション(180度)
月とスクエア。


ゴッホの海王星は魚座12度。
サビアンでは『博物館にある刀』で魚座のカリスマ度数です。

海王星は魚座の守護星なので強力です。



私は、ゴッホは画家になりたいというより
絵を描かずにはいられなかったのかなと思います。

10年間の短い活動の間に、油絵約860点、水彩画約150点、素描約1030点
描いたそうです。

絵を描くことが彼にとっての伝道に代わるものだったのでしょう。

ゴッホにとって絵を描くことは、神への祈りであり、
自分への癒しだったと想像します。



『畑の古い塔』1884年7月


『秋のポプラ並木』1884年10月




そして太陽が弱いと言われるゴッホの太陽は
「水晶を凝視する人」(水晶占い師)。


水晶もプリズムですよね。

ゴッホ自身がプリズムだったのかラブラブ



目に見えないエネルギーを具現化していたのかもしれませんね。


後期の作品は、次元エネルギーを描いてたんじゃないかと思ってしまう。

ゴッホは想像で描くことは苦手で、実物を見て描くタイプの画家でした。


「ぼくは『オリーブ園のキリストと天使』という習作を今度で二度、掻き削ってしまった。
ここでは本物のオリーブが見られるのだし、ぼくはモデルなしに描くことはできない、というよりは描きたくないからだ。
しかし、この絵は色彩もぼくの頭の中にある。星空、青いキリストの姿、もっとも強い青、そして天使は柔らかいレモン・イエローだ。」



『星月夜』1889年6月


ゴッホの絵って初期の頃は、地味で暗い色合いなんですが、
後期の『星月夜』に描かれた空なんか、あれは目に見えないもの、
エネルギーを描いたとしか思えないんですよね。



ハッブル宇宙望遠鏡がとらえたV838 Monの画像。

ゴッホが描いた星と似ているウインク





人生の到達点(MC)は、魚座22度。
サビアンシンボルは「精神主義的な現象」
霊媒師とかチャネリングとか、非常にスピリチュアルな度数です。


統合失調症だったとか癲癇症だったとか言われたゴッホですが、
今で言うチャネリングだったのかも。

もっとも「○○と交信した」なんて話は残っていませんがあせる

そういえば、ゴッホは金星から来たとか、
プレアデスからだとか、そういう話も聞いたことがあります。




生前に売れた1枚『赤い葡萄畑』(1888年11月)



生前に評価されなかったのは皮肉ですが、
もう少し長生きしていたら絵が売れる喜びを
味わっていたかもしれませんけどね。

なにしろ、絵を描いていたのは10年ぐらいで、
37歳で亡くなっていますから、
作家活動としては短かったと思います。






『ローヌ川の星月夜』1888年9月


『夜の白い家』1890年6月

「星を描くことで希望を、輝く夕陽を描くことでひたむきな魂を表現したい」

と語っていたゴッホのホロスコープを見ていると、
宇宙意識を彼の月が受信して、
それを水星と金星に表現させているように思えてきます。



天文学の方でもゴッホの絵に描かれている星を調べている人達がいます。

以前にブログに書いたかも知れないですが、
ゴッホが描いた星が金星であることや、
星の位置から描かれた年が判明したりしているんですよ。


『夜の白い家』は1890年6月16日、
『糸杉の星の見える道』は、水星と金星が合になり、
シリウスよりも輝いた1890年4月20日ごろと検証されています。



『糸杉と星の見える道』(1890年5月)



代表作の『ひまわり』は、15本(本?)描かれており、
その半分は画家ゴーギャンとの共同生活を送るための部屋を
飾るために描かれたのだそうです。

活動の拠点をパリから南フランスのアルルへ移したのは、
1888年2月、その年の10月から共同生活を始めました。

ところが12月頃にはそのゴーギャンと仲たがいし、
ゴッホは自分の耳を切る事件を起こしてしまうんですが叫び

天王星が彼の水星にオポジションで影響し始めた頃でした。




ゴーギャンと仲が良かったアルル時代の絵は
明るい色調の絵が多いです。


『アルルの跳ね橋』(ラングロワ橋)1888年4月


『ひまわり』1888年8月


『夜のカフェテラス』1888年9月




「生にもうひとつの世界があるのならば、
確かにそれは見えないが、しかし人間は死ぬときそこに行く。」


ゴッホの絵にはキリスト教に関するモチーフがたびたび描かれます。

麦畑、糸杉、ひまわり、オリーブ


後期に好んで描いた糸杉は、墓地によく植えられていたことから
「生と死」のシンボルと見られています。

糸杉の花言葉…”死・哀悼・絶望”


もうずっと糸杉のことで頭がいっぱいだ。
ひまわりの絵のように何とかものにしてみたいと思う。
これまで誰も、糸杉を僕のように描いたことがないのが驚きだ。
その輪郭や比率などはエジプトのオベリスクのように美しい。
それに緑色のすばらしさは格別だ 
-1889年6月25日、弟テオへの手紙(サン=レミにて)



1889年は、空の木星がゴッホの太陽にスクエア、土星が彼の土星にスクエアでした。

この年は何度も発作を起こし、幻覚に悩まされました。



『自画像』1889年9月


ゴッホは(モデルを雇うお金がなかったため)自画像を多く描き残していますが、
これが人生最期の自画像のようです。
ブルーの背景がオーラに見えてきます。



ゴッホは無意識に死に魅入られていたのかも知れません。


そうだ、僕は絵に命を懸けた。そのために半ば正気でなくなっている。それも良いだろう。
Ah well, I risk my life for my own work and my reason has half foundered in it - very well -
1890年7月23日 テオへの手紙より


この手紙の4日後に拳銃自殺(今も自殺を疑問視する声はある)をし、
7月29日に亡くなりました。

最後にテオ(弟)に言った言葉は「このまま死ねたらいいのだが」だったそうです。

ゴッホはもうこれ以上、愛する弟に金銭的、精神的迷惑をかけたくなかったのかも知れません。

死の3週間前、ゴッホがテオの家族の負担になっているのを痛感する出来事に遭遇していたからです。


自殺であれ他殺であれ、死を受け入れたのでしょう。

ゴッホのプログレス太陽とネイタル土星が重なっているときでした。




『カラスのいる麦畑』1890年7月

ゴッホ自身が「極度の悲しみと孤独感を表現した」と語っている絵です。




ゴッホの一番の理解者であった弟テオは、
後を追うように半年後に病死しています。

テオにとって兄ゴッホは自分の半身のような存在だったのでしょうね。


テオの死後、ゴッホの知名度を上げるのに貢献したのが
テオの妻であったヨハンナでした。

ヨハンナがゴッホとテオの書簡をまとめ上げ出版したのは1914年。

(ゴッホの水星は牡牛座25度『持ちきれないほどの贈り物を所有する男』で、
手紙魔ごとく手紙を書きました。
弟テオの木星が、ゴッホの水星とコンジャンクションしています)


ヨハンナのおかげで、現代の私たちもゴッホの心模様と
強い絆で結ばれた兄弟の愛を知ることが出来ています。



ヴァン・ゴッホの生誕から160年余の年月が流れ、
海王星はひとめぐりして再び魚座に、
天王星はゴッホの天王星の上にやってきました。

ヴァン・ゴッホの必死の祈りは
ひろく世界の人々に届けられているのを感じます。



*****

別れには耳をちょうだい わたくしを棄てていくならあなたの耳を/佐山みはる(自作)

*****



ここからは、人間、フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホを読んでみます。

長過ぎてスミマセンm(__)m




最初のつまずきは思春期(水星の年齢域)

家族と離れ寄宿舎のある学校へ進学しましたが、
途中で家に戻ってきてしまいます。

友人が出来なくて学校がつまらなかったのか、
寮生活の規則が疎ましかったのか。

ゴッホの太陽に、空の海王星がコンジャンクションしていました。



学校を辞め、叔父のツテで16歳で画商の道へ。

画商時代は、物心両面において恵まれ、
生涯で一番幸福感を感じていたかもしれません。

プログレス太陽に、空の木星がトラインの角度を取っていました。



2度目のつまづきは1973年(20歳、金星の年齢域)の失恋がきっかけです。

豊かさを与えた木星が、ゴッホの太陽にオポジションの角度になっていました。

しだいにゴッホは宗教に傾倒していくようになります。
(もともと牧師の息子ですしね)



3度目は牧師の道を断たれたことです。1879年(26歳、太陽の年齢域)


その結果、父親との確執が深まったと思われます。

以後、実家を離れたゴッホを弟テオが援助するようになったようです。


父親とは確執が深く、ゴッホは「自分は愛されていない」と
感じていたようです。

ゴッホファンは周知ですが、ゴッホには生まれてすぐに亡くなった兄がいます。
同じフィンセントという名前の兄の命日は1852年3月30日。
ゴッホの誕生日のちょうど1年前でした。

父親が牧師をつとめていた教会の墓地にその兄の墓はあり、
ゴッホは幼い頃から何度となくその墓を見ていたことでしょう。

もしかしたら亡くなった兄には成れないことを苦悩していたのかも。



土星(父親)は、金星とセミスクエア、月とインコンジャクト。

父親はゴッホの芸術には関心がなく、
ゴッホの性格を抑制する影響を持っていましたね。

父親から見れば扱いにくい子供だったでしょう。

この土星を社会に置き換えてみれば、
ゴッホの絵が当時なぜ人売れなかったのか、わかる気がします。




「伝道師として挫折した私は絵画を通じて、救い、救われたかった」。

ちょうどサターンリターン(土星回帰)のタイミングですね。



4度目のつまづきは1881年(28歳、太陽の年齢域)、再びの大失恋がきっかけに。

いとこで年上の未亡人に求婚しますが、断られたうえに
避けられるようになり、ついにストーカーチックになってしまいます。


ゴッホの水星の上に、空の木星、土星がコンジャンクションでした。



そのあと、1882年に子連れの娼婦シーンと同棲しますが、
喧嘩別れし(のちにシーンは入水自殺)
1884年には10歳年上の女性と親密になりますが、
両方の家族に反対され、彼女は自殺未遂をはかります。



1885年3月26日、ゴッホの父は心臓病で亡くなりました。
ゴッホが32歳(太陽の年齢域)の誕生日直前でした。


空の天王星が天秤座に入るところで、
ゴッホのネイタルの天体に次々オポジションになっていこうとしていました。


数秘で見ると31歳から第2期に入っていて
頂点数11/2、試練数5でした。



私の勝手な見解ですが、、、
父の死は、サターンリターンを終えたゴッホの人生が
あらたな局面へ向かうサインのようです。

土星の抑制力は、地球に住まうためのルールのようなもので、
宇宙から来た魂たちを地球につなぎとめるアンカーです。

ホロスコープの土星は父親を表しますので、
父親の死後、土星を肩代わりしてくれる人がいなかったとすると、
地球に魂を繋ぎとめられなくなってしまい、
死期が早まったのかも知れません。

土星の影響力が弱まったゴッホは、
その上の天王星に影響(宇宙意識が流れ込んでくる)されるようになっていったのでしょう。



『じゃがいもを食べる人々』1885年4月


父の死の2ヵ月後、ゴッホは今までの集大成として初の個展を催します。

自信満々だった『じゃがいもを食べる人々』は
残念ながら売れなかったですが。
(私はこの絵好きだけどなぁ)


★パリ時代★

1886年(33歳、太陽の年齢域)、ゴッホはパリでテオと同居します。

パリでは多くの画家と交流し、刺激を受けるのですが、
相変わらず絵は売れず。
アルコールに依存するようになります。


その頃、テオが家族に送った手紙には
「彼の中にはまるで2人の人間がいるようだ。1人は才能に溢れて優しく
繊細な心を持つ人間だが、もう1人は自己中心的で、かたくなな人間だ。
2人は代わる代わる現れる。1人の話を聞くと、次にもう1人の話を聞かねばならない。2人はいつも喧嘩している。彼は彼自身の敵なのだ」
「しかし彼は間違いなく芸術家だ。僕は彼を助けなくてはならない」と
書かれています。


パリ時代の絵

『春の釣り』1887年春


『ヒバリのいる麦畑』1887年夏

↑この絵、ほっとします。

私はパリ時代の絵も好きですけど、ゴッホはしだいにパリに疲れていったようです。


★アルル時代★

1888年(35歳、火星の年齢域)、ゴッホはパリを離れ、南仏アルルへ。

ゴッホは日本に憧れを持っていて、アルルが日本に似ていると思っていたようでした。

彼はここに芸術家村のようなものを作りたかった。

賛同したゴーギャンは、実はテオが援助をしていたそうで、
ゴーギャンはテオへの義理もあってゴッホの提案に乗ったらしいですけどね。

しかし、ゴーギャンとの生活は2ヶ月で破綻してしまい、
ゴッホの精神も極限に達していくのでした。



『グラスに入れた花咲くアーモンドの枝と本』1888年3月


『花咲く庭』1888年7月


『アルルの寝室』1888年10月


耳切り事件には、直前にテオの婚約の知らせが来ており、
それが精神錯乱の引き金になったのかも知れません。

ゴッホは弟が家庭を持ってしまうと、
もう自分を援助してくれなくなるのではと心配していたようなのです。

耳切り直後、お気に入りの娼婦を訪れ、
「僕をおぼえておいてくれ」と言って切り取った自分の耳を
手渡したという話も残っています。

しかし、ゴッホ自身は「耳切り事件」に関して語ることはなかったようです。(極限の精神混乱がもたらした記憶喪失かもしれませんね)


空の天王星は、ゴッホの水星とオポジション。
冥王星は、ゴッホの月とオポジションでした。


★サン・レミ時代★

1889年(36歳)
周囲からは狂人扱いを受け、新婚のテオを頼ることを遠慮した
ゴッホはみずからサン・レミの精神病院へ入りました。

弟の妻、ヨハンナが妊娠したとき、また、出産したときも
ゴッホは発作を起こし錯乱状態になったそうです。

ゴッホは、いつかテオに見捨てられると恐れていたのでしょう。

この頃に描かれたのが『星月夜』『糸杉』『糸杉のある麦畑』でした。

発作がない時のゴッホは全く冷静だったそうです。



『糸杉』1889年


『糸杉のある麦畑』1889年9月


『サン=ポール病院の庭の石のベンチ』1889年11月


サン=ポール病院はゴッホが入院していた療養所(精神病院)です。

私はこの原画を見たとき、なぜか、墓石のようだと感じました。
しばらく絵の前から動けなかったですショボーン



1890年(37歳)、2月、生涯でたった1枚絵(『赤い葡萄畑』が売れました。
ゴッホの絵が認められ始めた兆候です。


空の冥王星と海王星がゴッホの太陽にセクスタイル(60度)
天王星がゴッホのMC、火星、金星にインコンジャンクト(150度)でした。



テオの長子に贈った『花咲くアーモンドの木の枝』1890年2月


★オーヴェル時代★

5月、ゴッホはサンレミの病院を出て、
パリ北西部にあるオーヴェール・シュル・オワーズへ。

オーヴェールへの転地療養は、ゴッホの精神によい影響をもたらし、
発作の再発もなく、約2ヶ月の間に約80点もの作品を描き残したそうです。


空の天王星がゴッホのドラゴンヘッドにトライン(120度)


『ドビーニの庭』1890年6月

『子供とオレンジ』1890年6月

この絵、好きです。
モデルはテオの子供(ゴッホの甥)でしょうか?

6月にテオ一家がゴッホのもとを訪ねて、ピクニックに出かけたことがあるそうです。



7月6日(死の3週間前)、今度はゴッホがテオ一家を訪ねるますが、
ゴッホは自分への援助がいかにテオ一家の負担になっているかを痛感する
出来事に遭遇します。(テオは母にも仕送りをしていた)


7月25日には遺作とされる『カラスのいる麦畑』を完成させました。

「今にも嵐になりそうな空の下に麦畑が広がる絵だが、
僕はここに究極の悲しさと孤独を表せないかと思った。
この絵を早く君にも見て欲しい。
なるべく早くパリに持って行こうと思っている。
見ればきっと、口では言えないものを、じかに君に語ってくれると思うからだ」。


空の天王星がゴッホの水星にオポジション(180度)


この2日後に自殺し、29日に駆けつけたテオに見守られながら
旅立ちました。

最期の言葉はオランダ語で「家に帰りたい」だったそうです。



『オーヴェルの教会』1890年6月

オーヴェルの教会』は、死の1ヶ月前の作品ですが、
パリの北にあったオーヴェール・シュル・オワーズの教会を描いているのに、
描かれている女性はオランダの女性のような身なりをしています。

この教会を父親として見立てれば、女性は母親でしょうか。


深い青に塗られた空。

私は大天使ミカエルの色と思いましたが、
ゴッホにとって青はイエス・キリストの色です。

重厚に描かれた教会は近寄りがたかった父親を表しているのかも。


ゴッホと父親の確執は知られたところですが、
程度の差はあれ、どこの家庭でも親は長子には口うるさいもの。

ゴッホが父親に愛されていなかったと感じていたとしたら、
それは自分が生まれる前に死産だった同じ名前の兄の幻影と
自分を比較していたのかもしれません。

身代わりだから自分は愛されないのだと。


「私はあるがままの自分を受け入れてくれることだけを望む」


実際の教会

ゴッホにとって父親は、愛してもらえない存在だったのでしょう。

でも、それは自我(ego)の言い分で、
心の底では拠りどころだったと思います。


あるがままを受け入れて欲しいと願い続けたゴッホ。

そして、こんな言葉も残しています。

「与えようとばかりして、貰おうとしなかった。
なんと愚かな、間違った、誇張された、高慢な、短気な恋愛ではなかったか。
ただ相手に与えるだけではいけない。相手からも貰わなくては。」

ゴッホがずっと求めていたのは安心でした。
結婚して家庭を持ちたいと熱望していたようですが、、、。

受け取っていなかったのは女性からの愛だけでなく、
家族からの愛もそうだったのでは?と思います。


人は皆、安心を求めています。
「お金が欲しい」、その言葉の裏には「安心したい」があるからですよね。


もしも、ゴッホが家族の愛を受け入れていたら・・・
あのとき弟テオの無償の愛に遠慮しなければ・・・
(テオも死ななくて済んだのではないか?)などと考えてしまいますが。

ゴッホに会いに行けたならただ抱きしめてあげたい、と
今も思っている私なのでした(苦笑)


最後までお読みいただきありがとうございますウインク





とてもよい旅行記です。
ゴッホがなぜ耳を切り落としたのか、アルルを歩いてみたらわかった気がする