宮殿の舞台裏 ヴェルサイユ宮殿に暮らす | 不思議戦隊★キンザザ

宮殿の舞台裏 ヴェルサイユ宮殿に暮らす

ヴェルサイユ宮殿。絢爛豪華な大サロン、煌びやかな衣装の紳士淑女が豪奢な舞踏会に集う。各国王族の誰もがヴェルサイユ宮殿に憧れフランス宮廷文化を取り入れた。ヴェルサイユ宮殿は究極の宮廷文化であった。


ヴェルサイユ宮殿に暮らす
ウィリアム・リッチー・ニュートン
訳:北浦 春香 
白水社

 

そんな「ヴェルサイユ宮殿に暮らす」。なんという甘美な夢であろう。いいなあ、憧れるなあ。ベルタン嬢のドレスを着て伯爵夫人たちとセーヴルのティーセットでお茶して美味しいもの食べて広大な庭を散歩して、夜になったら気になる殿方と愛の神殿で密会するの!うっとり。マダムの妄想は捗りまくる。

 

優雅で悲惨な宮廷生活・・・

 

ではヴェルサイユではどのような日常が営まれていたのか、ちょっと覗いてみよう。庭園には既に宮殿の勤め人たちが集まり大変な熱気である。

 

「ヴェルサイユ宮殿で暮らしたいかー!?」

「暮らしたーい!」

「宮殿で暮らす覚悟はあるかー!?」

「覚悟ありまーす!」

「よーし、では最初の問題はこれだー!部屋を探せーー!」

「うおおおおおおおおおッ!」

 

君もウカウカしてはいられない。早く部屋を押さえないと宮殿に暮らすことはできないぞ!もし部屋を与えられなかったら宮廷外の市中へ部屋を借りて毎日参内することになる。そうするといらんカネと時間がかかる。なので宮殿勤め人たちは必死である。宮殿といえども部屋数は限られているのに住み込み勤め人は増える一方だからだ。部屋を選ぶことは出来ず、与えられただけでも幸運だと思わなければならない。どんなに狭くても日当たりが悪くても我慢するしかない。

一般職の勤め人たちが暮らすのは寮のように部屋が並んでいる大共同棟である。当たり前だが台所や湯浴みスペースはなく、家具が揃っていれば儲けもの。ノミやシラミが同居人である。もっと良い部屋がいい?だったら総督ノアイユ伯爵へ辛抱強く嘆願書を送りまくることだ。

 

ここは屋根裏部屋

 

ちなみに王族とコネクションを持つ大貴族や高級官僚、王家礼拝堂の聖職者は部屋数が多いアパルトマンを割り当てられていた。この「宮殿横断ウルトラクイズ」に強制参加させられているのは役職なしの一般職として仕えている宮殿勤め人である。

 

部屋が決まれば住まいの心配はなくなった。心配がなくなると急に腹が減ってきた。じゃあちょっくら食堂で食事してこよう、と君は考えるだろう。ちょい待ち!宮殿の食堂に一般職の席はない。じゃあどこで食べ物を調達すればいいのかといえば、城館内の隅っこや中庭の壁沿いの露店から食べ物を購入することになる。ここで売っている食べ物は王の食卓に供されたものであった。しかし常に大量なので大量に余る→王の食卓を管理する食膳部の官僚に下げても余る→給仕係と侍従に下げても余る→小売商に下げられてやっと露店へ並んでいるのである。フランス宮殿でまさかのもったいない精神。

露店には美味そうなソースのかかった鴨がある。君はそれを購入して部屋で食べる。そして腹を壊すであろう。美味そうに見えたのに腐っていたのだ。なーにがもったいない精神だよ!詐欺だよ、詐欺!クソ露天商がああああ!腹を壊しても部屋にトイレはない。陶製のチャンバーポット(おまる)がトイレである。君は露天商を恨みながらチャンバーポットにまたがるであろう。

 

たまにアンティークショップで売ってるけど

これ、おまるなので気をつけてください

 

露天商は品物が腐ろうが傷もうが知ったこっちゃない。仕入れた余りものを売りつくさなければ大損を被るので、あの手この手で売りさばくのである。たまには新鮮で美味いものもある。

食膳部関係は無駄遣いと汚職の温柔(官職が売買されていた)となっており、王家の財政が逼迫していた1978年にやっと大幅改正、人員を大量リストラし、露店の食べ物再販も禁止されることとなる。まあ翌年には革命が起こるワケで改正もリストラも遅きに失した模様。

 

うーん、露店で買うのはもうやめよう。自炊しよう。え、台所がない?じゃあ1階の回廊にかまどを据えて煮炊きすればいいか。だってみんなやってるもん。

宮廷の調理場は王族のためのもので、住み込みの一般職用の調理場などなかった。そのため各々勝手に簡易な台所を作って食べ物を温めたり湯を沸かしたりしていた。炭を使って調理していたので中毒症状を引き起こすおそれがあった。

 

回廊を仕切ってかまどが並んでいたと思われる

天井は煤で黒ずみ、腐敗臭が充満していた

 

あぶねーあぶねー。もう少しで一酸化中毒で死ぬところだった。回廊でぶっ倒れていたところをノアイユ伯爵が見つけてくれたから助かったものの大目玉を喰らったわ。次からはちゃんと換気に気を付けよう。

いや、そういう問題じゃねえだろう、とは誰も思わなかった。宮廷内が不便すぎるからである。生活するのに全く適していないのである。それでも職を辞してここから去ろうとは思わない。なぜならヴェルサイユだからだ。ウルトラクイズは続いている。

 

愛の神殿もあるし!

 

せっかくのヴェルサイユなのにどーしたワケか毎日がサバイバル。思ってたのと少々違うが日々を暮らすうちに精神力忍耐力弁解力がついた気がする。これなら宮廷横断ウルトラクイズも最後まで残れそうだ。と思っていた矢先、君は耐えられないほどの悪臭に苛まれるであろう。もともとの悪臭には慣れてしまって気にならなくなっていたのに、夏の暑さもあって日に日に悪臭が強くなってきたのである。これはもう地獄の臭さである。原因は水であった。

ヴェルサイユの大庭園には噴水やら池やらグランカナルやらが設営されており大量の水を必要とする。その水は約10キロほど離れたセーヌ川からポンプ式で運ばれているのである。この「川の水」というのが曲者で、フランスではなんでもかんでも道端に捨てるという習慣があったため(というか、いまもある)、道端には腐った野菜、おまるからブチ撒かれた糞尿、動物の死骸などが堆く積み上がり常に悪臭を放っていた。雨が降るとそれらは押し流されてセーヌ川に流れ込む(それをフランス人は掃除と呼ぶ)。そんな汚水をせっせとポンプで汲み上げヴェルサイユ宮殿のグランカナルに運ぶもんだから美しい宮殿一帯が地獄の臭さになるのであった。

 

悪臭の大運河

 

あーダメだ。悪臭だけは我慢できない。悪臭のせいだろうか、ここ最近肌の調子が悪い。吹き出物は酷いしかゆいし全身にポツポツとした赤みが出ている。かゆい。かゆいのでぽりぽりと掻くとよじれた垢が際限なく出てくる。垢太郎でも作ってヒマをつぶすか。

垢を汚いとは思わないし自分自身が匂っているとは気づかない。なぜならみんながそうだったからである。王も王妃も高級官僚も下級貴族も家庭教師も女官も等しく臭いのである。唯一、風呂を習慣としていたアントワネットだけは違った。ところが清潔の概念を持たないフランス人とは習慣が違うということで所詮「オーストリア女」と呼ばれたのであった。相互理解って難しい。

 

寒い。暗い。季節は巡って冬である。夏はあんなに暑かったのに10月になった途端に朝晩が急に冷え込むようになった。金属のパイプ煙突付き陶器ストーブでは全然暖まらない。そのうえ窓の木枠が腐ってるので隙間風が入り放題なのである。もうずいぶん年季の入ったストーブは金属パイプが朽ちかけてところどころから煙が出ている。

夏の悪臭は我慢できたけど(のど元過ぎてすっかり忘却)底冷えする寒さは我慢できない。煙くて家具が煤だらけになるけど寒いのでガンガン薪を突っ込んでたらパイプの割れ目から火が出てあやうく大火事になるところだった。隣部屋の女官友達が火をぶっかけてくれて助かったもののノアイユ伯爵にバレて大目玉くらった。「またお前か!」って言われたけど反省なんてしない。いちいち反省してたらここで生き残ることはできない。ここは弱肉強食の世界、毎日が戦いなんだ!

 

冬にはだーれも庭園に出ない

 

初めて宮殿の裏側に足を踏み入れたとき、君は多少なりとも驚いたことを覚えているかい?埃と油で黒ずんだ床、腐った階段(死亡者が出たとの記録あり)、朽ちた窓枠、紫外線でボロボロのカーテン、破れた壁紙、そしてどこにいても漂う臭気。ネズミの大群に出会ったときは卒倒しそうになった(卒倒したらネズミの大群の中に倒れる恐れがあったので頑張って踏ん張った)。どうして掃除しないのかしら?掃除夫はいないのかしら?

ちゃんといた。床磨き職人も掃除夫もちゃんといた。しかし一般職の住居である大共同棟を担当している掃除夫は4人であった。4人!!たったそれだけであの広さを?無理な話である。だもんだから、なにもかもが不潔なままであった。

それなら君は自分の部屋とその周りくらい掃除しようと思うだろうか。全く思わないであろう。なぜなら君の仕事は掃除ではないからだ。ヴェルサイユで「暮らす」ために、更には「絶対王政舞台の登場人物」として君はここにいるのだ。混沌を極めた宮殿に、君は徐々に慣れていく。終わりのない芝居を演じるように。

 

迷子になる自信ある

 

また夏が来た。ヴェルサイユで一年過ごすうち、君の鈍感力は驚くほど磨かれているだろう。臭くても寒くても暗くても暑くても腹が減っても壊れても、表面上は涼しい顔で高貴な方々の世話を焼く。優雅に、慇懃に、当たり前の顔をして。

おめでとう!君は宮殿にジャストミート出来たのだ。しかし一方、「勝負に勝って試合に敗けた」感を拭いきれないのであった。

 

~Fin~

 

以上、妄想を終わる。妄想の中の人物をなぜ「自分」ではなく「君」にしたのかというと、本書を読み進むうちに「ここに住んだら発狂するな」と思ったからである。なので君を犠牲にした。すまない。

本書はこれまでに語られることのなかったヴェルサイユ宮殿の真実(笑)を暴露した一冊である。ヴェルサイユ宮殿を専門とする歴史家である著者は、当時やりとりされた手紙や官僚機構の報告書などを丹念に収集し、読み込み、分析している。そこから浮かび上がってきた「日常生活」は、驚くべき不潔さであった。

 

ここは表舞台の鏡の間

 

宮廷文化が発達していたフランスで、宮廷の華麗さとはまるで相容れない小話が存在する。曰く「トイレが少ないのでバケツに溜めて窓から捨てる」「ハイヒールは汚水をよけるための靴」「東西南北どこでも悪臭」などである。本書を読むとそれらが実話であったことが心の底から理解できる。したくないけど。

ヴェルサイユ宮殿に暮らすこと、それは我慢することなのであった。巨大な宮殿はハッタリをかますには良くても、生活するには不便で不衛生だからだ。それでもやっぱり宮殿で暮らすことは一種のステータスであったのだ。そこに王が御座すからである。

 

「L'État, c'est moi」、朕は国家なり。絶対王政を象徴する言葉である。発したのはルイ14世であった。

 

お芝居大好き太陽王

 

ヴェルサイユ宮殿は、もともと狩り用に作られた簡易な館であった。狩りに出かけたルイ13世(14世の父)が、いちんちでパリまで戻るのは面倒臭えなあ~、妻の目が届かない場所で恋人(男)といちゃつきてえしな~、そうだ!狩り用の館を作っちゃえばいいや!という理由である。

 

その簡易な狩り用館を魔改造して現在の宮殿に整えたのがルイ14世である。ルイ14世のニックネームは「太陽王」、貴族民衆を問わず誰からも愛され、そして愛した王であった。14世は芝居が好きであった。自ら芝居に出演するほどの芝居好きであった。その芝居好きが高じた結果がヴェルサイユ宮殿なのではなかろうか。ヴェルサイユは生活するには不便でも、芝居を演じるには最高の舞台である。

狂気の沙汰とも言える煌びやかな宮殿をこさえてお気に入りの上級貴族を集め、官僚には華美なお仕着せを与えて各所に配置、そこに王は王然として君臨する。王の起床から就寝までの日常生活に細かなルールを制定して、その「日常」を下々に披露する。王妃の出産も公開であった。下々は王(と王妃)の生活を「観賞」する。これほどまでに壮大で傍迷惑な芝居があるだろうか。

後に続くルイ15世とルイ16世は迷惑を被った側である。ヴェルサイユ建造の莫大な借金で国庫には全くカネがなかったうえ、15世はあまりにも細かいルールと変わり映えのない日常に飽き飽きして女に走る。16世は地味で質実剛健な性格のため本気で王をやってしまい、民衆の求める王を演じることが出来なかった。そして革命が起こった。

 

人権宣言

 

現在のヴェルサイユ宮殿は美しい夢である。主役を失った華麗な舞台である。だったらコスプレしてでも昔日の夢の続きを見ようじゃないか!ということで今ではコスプレ舞踏会や音楽会が催され人気を博している。妥当な着地だと思う。

 

コスプレ音楽会

 

実はマダムはまだヴェルサイユ宮殿に行ったことないけど、いつか訪問出来たら「ああ、ここで過酷な宮殿横断ウルトラクイズをやってたんだなあ」と噛み締めたい。