読書の愉しさと翻訳の妙 香水 | 不思議戦隊★キンザザ

読書の愉しさと翻訳の妙 香水

我々はなぜ読書するのか。視野を広げるため?実用のため?現実逃避?突破口が欲しい?単なるヒマつぶし?どれも正解だ。しかし最も多い理由は「面白いから」であろう。そう、読書は面白い。面白い本に当たったときは、まさに寝食を忘れて没頭し、読み終えて、しばし余韻に浸るのである。それだけの本が、いったいどれだけあるだろうか。

あった。今回紹介する本書がそれである。

 

香水 ある人殺しの物語

パトリック・ジュースキント

訳:池内紀

文春文庫

 

映画化されたので映画作品を観賞された方も多いだろう。映画では750人の全裸男女のラブシーン(?)が話題となった。マダムは未観賞である。しかし本書を書店で見かけて買ってみた。すっげーーーー面白かった。

 

物語にぴったりのヴァトーの画(部分)

 

18世紀パリ。孤児のグルヌイユは生まれながらにずば抜けた嗅覚を与えられていた。異才はやがて香水調合師としてパリ中を陶然とさせる。さらなる芳香を求めた男は、ある日、処女の体臭に我を忘れる。この匂いをわがものに・・・。欲望のほむらが燃え上がる。稀代の「匂いの魔術師」をめぐる大奇譚!

(文庫本裏表紙より)

 

「大奇譚」とあるように、本書は波瀾万丈奇々怪々、奇想天外な物語である。腐った魚に囲まれて生まれたグルヌイユは出生からして異端であった。父親不明、母親は嬰児殺しの罪で死罪、孤児となったグルヌイユの冒険は生を受けた瞬間から始まった。武器は嗅覚である。

「嗅覚」「匂い」を重要とした作品に相応しく、冒頭でパリがいかに臭いかが語られる。その悪臭の描写がやたらめったら素晴らしい!

 

川はくさかった。広場はくさかった。教会はくさかった。宮殿もまた橋の下と同様に悪臭を放っていた。百姓とひとしく神父もくさい。親方の妻も徒弟に劣らずにおっていた。貴族は誰といわずくさかった。王もまたくさかった。悪臭の点では王と獣と、さして区別はつかなかった。王妃もまた垢まみれの老女に劣らずくさかった。

 

どーよ、このリズム感!やっぱ小説はリズム感が大切よ。もうこれだけでトリップできる。読者は一気に悪臭の満ちた18世紀パリへ連れていかれるのである。

そんなら読んでて気持ち悪くならないかというと、ならない。なぜならグルヌイユに感情がないからだ。グルヌイユはどこか壊れていて人間らしい感情を持たない。感情を犠牲にして並外れた嗅覚が与えられているのかもしれない。

そして不思議なことにグルヌイユ自身は「体臭」を持っていないのだ。

 

映画版グルヌイユ役は007のQ

 

感情を持たず何も信じず目立たないよう地味に徹するグルヌイユと対象をなすのが脇役どもである。大酒飲みの皮なめし職人の親方、虚栄心の強い香水調香師のバルディーニ、「致死液」という自説の科学的研究に没頭しているエスピナス侯爵。人間味が溢れる俗物どもに囲まれて、グルヌイユの静謐さはますます際立っていく。変人度に純粋さが比例していく。なんというケミストリー!

 

ジェイソンのようだ、と思った。ジェイソンとは「13日の金曜日」でおなじみのホッケーマスクを被った殺人鬼である。「フレディ VS ジェイソン」という作品(B級ド直球)では「エルム街の悪夢」の殺人鬼フレディとレゾンデートルを賭けて殺しあう。殺人鬼のくせにおしゃべりのフレディに対しジェイソンは寡黙である。延々五月蝿いフレディより粛々と殺人を犯すジェイソンに律儀な職人魂を感じるのである。自身の追求することを黙ってやり遂げるジェイソンが大変カッコいいのである。であるからして、理想の香りのためには殺人さえ厭わず寡黙に堅実に真摯に追求するグルヌイユに、ジェイソンに似た孤高の純粋さを感じるのである。

 

参考:ジェイソンさん

 

脱線しまくった。続ける。さて、グルヌイユと関わった脇役どもは次々と最期を迎える。その最期が死にゆく人物に相応しいものでまったく湿っぽくなく、彼らの死にグルヌイユは直接介在していないので寓意的でさえある。これはお伽噺であろうか?

お伽噺のようでもあるし、なんらかのメタファーが隠れているようでもあるし、もしかしたら訓戒があるかもしれない。でもそんなことはどうでもいい。ただただ面白ければ良いのだ。我々は面白さを堪能するだけでいい。

 

平易な語り口はときとして飄々、それでいてグルヌイユの空想は絢爛豪華で留まることを知らず、状況描写は絵画のようだ。大げさなレトリックは皆無である。すべてがグルヌイユの思惑通りに動き、しかし違和感なく収まっている。奇想天外物語なのに作為は微塵も感じられない。そしてグルヌイユの最期が良い。体臭を持たなかったグルヌイユは香りが飛んで消えるように、跡形もなく姿を消すのである。見事である。

 

ラストまでパーフェクトな見事さは原書のレベルが高いであろうことに加えて、日本語翻訳に拠るところも大きいと思われる。名訳なのだ。重すぎず軽すぎず、過剰でもなく乏しくもなく、緩急自在なリズム感。翻訳者はドイツ文学の大御所、池内紀(いけうち おさむ)。

 

ほかも読んでみよう

 

マダムはドイツ文学は数編程度しか読んだことなくて、そのうちの一冊くらいは氏が翻訳したものがあるだろうと思って手元のドイツ文学もの(ホフマン、ゲーテ、ヘッセ)を確認してみたら持ってなかった。ということは初めて氏の手による本を読んだわけなのだが、思いもよらない名訳に出会えて大変嬉しい。翻訳者の力量をありありと感じる逸品であった。久しぶりに、心の底から読書の愉悦に浸った。浸りきった。氏に翻訳された本書こそ僥倖であると言えよう。