タガを外したSF ソラリス | 不思議戦隊★キンザザ

タガを外したSF ソラリス

ソラリス

スタニスワフ・レム

ハヤカワ文庫

 

心理学者のケルヴィンはソラリス・ステーションに着陸した。カプセルから降りても誰も迎えにこない。このステーションには3名の研究者がいるはずだ。わざわざ地球からやってきてやったのに、と少なからずケルヴィンは思った。

 


SFを超えてる

 

ソラリス---、それは約100年前に発見された海に覆われた惑星である。「ソラリスの海」はソラリス学として数十年研究が続けられ議論がなされてきた。多少分かってきたこともあるが、依然として謎のままである。

分かっていることといえば、ゼリー状の海が重力に影響を与えていること、そして海そのものがソラリスというひとつの生命体であるということ。生命体である海が「思考」している可能性があること。よってソラリスは「思考する海」という別名を与えられていた。

 

 

さて、ソラリスに降り立ったケルヴィンが最初に会ったのはサイバネクティス学者のスナウトであった。スナウトはケルヴィンを見て慄いた。まるでバケモノに逢ったかのように。

なぜケルヴィンをみて驚いたのか、なにを焦っているのか、怯えているのはなぜか。ケルヴィンはスナウトに理由を聞くがハッキリとした答えは返ってこない。しかしスナウトが恐れおののいた理由を遅からず知ることになる。ケルヴィンの前にバケモノが現れたからである。

否、それは一見普通の人間である。しかし地球から遠く離れたソラリスには存在し得ない「腰ミノを着けた部族らしき黒人女性」だったのだ。その黒人女性は今朝ステーションで自殺したソラリス学者の「客」ということであった。

そしてとうとうケルヴィンにもケルヴィンの「客」が現れる。ケルヴィンの客は数年前に自殺したハリーという女性であった。地球で死んだハリーがここにいるはずがない。ハリーの遺体を発見したのはケルヴィンだったのだから。

いま目の前に現れたハリーは、ハリーに擬態した何かだった。

 

ハリーに擬態した何かは一体何か。擬態したハリーは何処から来たのか。ハリーに擬態した何か自身、ハリーだと思い込み、そのように振舞う。だがハリーの自殺を知っているケルヴィンは、ハリーに擬態した何かを疑い怖れる。そして奇妙なことにケルヴィンの怖れを察知したハリーに擬態した何かも、得体のしれない自分自身を恐れ困惑する。

ハリーに擬態した何かが悩み怖れる様子を見たケルヴィンは、本物のハリーではないと分かりつつも心を動かされ始める。

 

 

ソラリスに滞在している者たちの前に現れたそれぞれの客は、各々が過去に何らかの負い目を感じている相手であることが物語の中で推測される。普段は忘れているけれども、心のどこかに棘のように刺さっている誰かが出現するのだ。はっきりとした実体を伴って現れるので自分の客が他人にも認識できるという点で幻覚ではない。なぜこんな現象が起こるのか。

 

客の出現はソラリスによるものだった。人間が最も思いを残している対象を実体化させるらしいのである。しかし対象を実体化させても、その対象者が持っているはずの記憶や思い出といった中身の部分が不完全なままなのだ。幽霊でもなければ完全なるコピーでもない。では何か。

実体化された対象者である客は、被対象者さえ気づかない潜在意識の残像だ。実体化されたハリーはケルヴィンを通したハリーなのだ。なぜソラリスはこんなことを?




人間を試すためか?嫌がらせか?罠か?何が作用しているのだ?現象の原因は何だ?いくら考えてみたところで理由など分からない。もしこれがソラリスの運動の一環、繰り返されるリズムのようなものだとしたら?地球上の潮の満ち引き、巡る季節のようなものだとしたら?だとしても、なぜなのか。疑問はまた最初に戻る。

 

―略―


以前「昭和少年SF大図鑑展」のレビューでこんなことを書いた。

想像力は無限ではない。人間の想像力は、既知を凌駕することは出来ない。

 

ソラリスを体験すると、我々の想像力が如何に乏しいか理解できる。我々は宇宙人を人間と同じように脳と身体を持つ生き物として考えていないか。そして宇宙人は、友好的か攻撃的か、支配者か被支配者かという二元論を前提としていないか。

ウェルズの「宇宙戦争」、クラークの「幼年期の終わり」、ホーガンの「ガニメデの優しい巨人」、これら古典的名作に登場する宇宙人は現在おびただしいまでに増えた全ての宇宙人のモデルともいえるが(幼年期の終わりでは実体を伴わないスピリチュアルなエイリアンは登場する)、どれも生物という観念に収まる宇宙人であり、二元論に収まる宇宙人である。さらに彼らの目的は我々にも理解できる。これこそ想像力の限界である。それをレムは「ソラリス」で易々と飛び越えた。

 

 

ソラリスの重力の発生と維持、海の運動、客の出現。ソラリスは本当に思考しているのか、それとも鏡のようにただ映し出すだけなのか。ソラリスの意図も目的も、どうして存在しているのかもまるで分からない。我々はソラリスを理解できないのだ。

ソラリスという惑星のステーションが舞台となっている当作品は確かにサイエンスフィクションである。しかしSFだけには収まらない。我々の知り得る科学的法則がなく、ただそこに存在するソラリスの不気味さはコズミックホラーともいえるし、HOW(どのように)ではなく、WHY(なぜ)と問うているところは哲学的でもある。

 

既知を凌駕しながら、レムはただ恐ろしさだけではなく、ケルヴィンを悩ませることで誠実さを描いているように思える。我々は結局我々の常識から抜け出せないし、自分の中にある無意識を操ることは出来ない。ソラリスの本当の姿を捉えることも出来ないし、ソラリスを何らかの形で自分たちに還元することも出来ない。

ソラリスはただそこにあるだけなのだ。なぜそこにいるのか、何を思考しているか分からないけれども。

それでも我々は宇宙を夢見るのだ。

 

 

マダムはパイオニア10号の金属板やボイジャーのゴールデンレコードに有益性を見出せないが、ついそういったものに夢を託してしまう人間の好奇心が好きだ。

 

 

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