作家の描く妻 獅子文六 娘と私 | 不思議戦隊★キンザザ

作家の描く妻 獅子文六 娘と私

特に意識したわけではないが、続けざまに作家が自分の妻を書いている作品を読んだので順番にレビューする。トップバッターは獅子文六である。

娘と私
獅子文六
ちくま文庫

 


波乱万丈

 

獅子の最初の妻はフランス留学時に知り合ったフランス人女性であった。1925年6月に臨月の妻エレーヌを伴い日本へ帰国、8月に娘のマリーが生まれる。
翻訳と演劇評論で大して稼ぎはなかったが、親子三人の借家暮らしは身の丈にあった幸福であった。ところがマリーが5歳のとき妻エレーヌが病に倒れ、故郷で静養させるため文六は娘を姉夫婦に預けて妻に付き添い渡仏する。しばらくフランスに滞在していたが手元不如意になってきたので妻をフランスの実家へ置いて文六はひとり日本へ戻る。ほどなくして妻はそのままフランスで亡くなった。

 

しばらく男手ひとつでマリーを育てるものの仕事をしながらではあらゆることに手が回らない。見かねた周囲が見合いを持ち込み、何度目かの見合い相手である千鶴子と結婚する。千鶴子は最初の結婚に失敗し離縁されたため故郷の愛媛にいられず東京へ出てきて和裁を教えている30代であった。ちょうど良いと文六は思った。

文六が再婚したのは娘マリーのためである。文六にとって千鶴子は恋女房ではなく娘の母親であった。なので文六は千鶴子と子供をつくる気はなかったし、そもそも千鶴子と閨房をともにする考えもなかった。

見合いの席で「私は生涯を共にする相手を探しているのではなく、子供の母親を探している」と断りをいれたことで文六は千鶴子の了解を得たつもりであった。しかし千鶴子も一己の感情を持った人間である。ある日千鶴子からの手紙を読んで仰天した。そこにはこう書かれていたのである。

 

あまり、夫婦が、御無沙汰すると、仲が冷たくなるといいますから、私の方から、押しかけるかも、知れません。よろしくて?

 

肌を合わせることを望む千鶴子を文六は心の底から不思議に思った。なぜ不思議に思ったのかというと、自分は別に千鶴子と寝る義務があるとは思っていなかったからである。再婚の理由も妻が欲しかったわけではなくマリーの面倒を見てくれる母親が欲しかっただけだからだ。

娘のマリーは千鶴子にすぐなじんだ。前妻と同じく「ママ」と呼び、なんのこだわりもなく千鶴子と母娘のような会話をする。文六は娘に救われたといってもよい。長らく一緒に住むうちに、文六と千鶴子は自然な夫婦の形になった。

 

戦後どういうわけか文六が流行作家になり蓄えも出来たので大磯に一軒家を構えることになった。文六は大黒柱としての面目を施したのである。なにより喜んだのは千鶴子であった。台所を自分好みに誂えることができるからである。家が完成する前、あんなに台所を楽しみにしていた千鶴子が急死した。新居に入ることが出来たのは文六とマリーだけであった。

文六は千鶴子を喪くして初めて千鶴子を愛していたことに気付いた。

 

―略―

 

獅子文六は明治生まれの作家である。長らく絶版だった小説が最近大量に再販されているとはいえ、現代では忘れられた作家の範疇に入るかも知れない。戦中に本名で出版した「海軍」で戦後にしばらく干された経験を持つが、新聞小説で成功を収め流行作家として一時代を築いた。

さて今回俎上に載せた「娘と私」は1953年から1956年にかけて月刊誌に連載された私小説である。登場人物の名前こそ違っているがタイトルにもあるように娘マリー(巴絵)が生まれたときから始まり、マリーの結婚で終わる。物語はマリーが中心になっているので最初のフランス人妻、再婚した千鶴子の描写も詳細に語られている。

家族の物語といえばいえるが、どちらかというと文六の胸の内にある家族の思い出を密やかに語っている感じである。なのでこれは文六からみた文六の家族の物語であって、娘のマリーや妻の千鶴子からするとまた別な物語になると思われる。それほど文六の個人的で正直な気持ちが赤裸々につづられた一冊である。

 


戦前のエピキュリアン

 

文六は生涯に3人の妻を持った。マリー(巴絵)を生んだ最初の妻マリー・ショウミー、二番目の妻静子、三番目の妻幸子である。幸子はマリーの結婚後に再婚した妻なので本書には登場しない。三人の妻の中で最も多くを割かれているのが二番目の妻静子(小説では千鶴子)である。巴絵(小説ではマリー)が5歳のとき妻のマリー(小説ではエレーヌ)を喪ったので、その後再婚した静子の描写が多くなるのは必然であろう。

その静子との再婚の理由が「マリーの母親になってくれる女性」であった。自分の好みや男女の愛などは一切なく、いっそ清々しいほどの割り切った理由である。しかし情というものは割り切れるものではない。静子は文六と本当の夫婦になりたがった。そりゃそうだろう。妻として夫の愛を丸ごと受けたいのは当たり前のことである。ところが文六は静子をマリーの母親としか見ていない。静子を孤独にさせまいと努力していたつもりだったが、それもマリーのためである。そして女はそういった男の気持ちに敏感である。静子は文六に対して他人行儀になり、癇癪めいた態度をとるようになる。

そういう態度をとられるたび文六は憤慨するが、その原因が閨房にあることに考えが及ばないどころか「エレーヌだったらあんなことはしない。あんなことはいわない」と亡くなった妻と比べるのである。なんと鈍感な男であろうか。

 


最初の妻マリーと

 

文六の鈍感さは時代のせいでもあった。身の回りの世話と子供を育てるための再婚は当時は普通なのである。現在でもそういった結婚はあるだろう。そもそも男手ひとつで子供を育てるなど有り得ないことであった。なぜなら男は大黒柱として家族を養うため働かなければならないからである。遺族年金もまだ整っておらず(というか母子福祉年金の始まりが昭和34年、父子家庭にまで拡大したのはなんと平成26年である!)前妻のエレーヌを喪くし静子と再婚するまでの間は文六ひとりで巴絵を育てたのだ。家事一般を手伝ってくれる年配のお手伝いさんを雇っていたとはいえ、仕事のため寄宿舎に入れていた巴絵が肺炎になったときなどは仕事どころか文六自身の生活さえままならなかった。家事と子供の世話のために再婚を望むことは働き盛りの男にとって当たり前であった。

 

文六には気苦労が絶えなかった。まず巴絵が日仏ハーフであるということ。近所の悪ガキどもと元気に遊んでいたとはいえ日本の学校に入れればいじめの対象になるかもしれず、カネがかかってもフランス系カトリックの女学校へ巴絵を入れる。本書には日常生活で差別を受けたようなことは一切書かれていないが、当時の世相を考えると腹に据えかねることや落ち込むことも多々あったに違いない。それでも文六はそういったことを一切書かない。娘への配慮とも思えるし、文六自身がことさら声高に被害者ぶることは彼の矜持が許さなかったのだろう。書くことと書かないことの線引きがはっきりしている。それが彼の美学なのだ。

 


娘の巴絵と

 

そんで、気苦労の多かった文六、話は戻るが静子との性生活である。なぜ静子と寝室をともにしなかったのかというと、勃たなかったからである。それだけ心労が多かったといえるし、デリケートであったともいえる。というか、ここまで赤裸々にぶちまけていることに驚愕。そしてその内容は非常に真摯且つ紳士的なのである。反省してるし。

文六が完全とはいえずとも活力を取り戻したのは新聞連載が当たって多少なりとも生活に余裕が出来てからである。静子は自分が子供を産むことができない身体と知り覚悟をきめて理性的に落ち着いてきたことも理由であろう。

ヤモメ男と日仏ハーフの娘と後妻の家族はやっと自分たちが落ち着くべき場所に落ち着き、不思議と安定した調和に包まれる。

 


最初で最後の家族写真

 

そんな矢先に静子が亡くなる。文六は葬式で取り乱さんばかりに泣いた。まさか自分がこんなに悲しむとは思っていなかった。静子への愛は小春日和のように淡淡としたものだと思っていた。

 

おれは、こんなに、あの女を愛していたのか。私は驚くほどだった。彼女が生きていた頃、亡妻のエレーヌが、常に、私の頭のどこかにいて、彼女との比較が、よく、私を嘆かせた。エレーヌなら、こんなことはいわない、しない。そんなことを、よく、考えた。

驚いたことに、千鶴子(静子)が死んだ途端に、エレーヌの面影が、どこかへ、飛んで行ってしまった。そして、エレーヌの席に、千鶴子が座り、その映像は、遥かに濃く、強くなっていた。

 

静子への愛が、いつ情を持ったものに変わったのかは分からない。しかし都会的な文六がここまで書くとは思い切ったものである。

まるで最後の女のような書きっぷりだが、静子は文六の最後の女ではなかった。

静子の死の翌年、60を過ぎている文六は3番目の妻となる幸子と再婚するのである。武家出身の両親を持ち幼少時からプチブルな生活様式で生きてきた文六は、どこまでいっても日常生活の些事をひとりでは処理出来ない男だったのだろう。

厭世的なエピキュリアンの文六に相応しいとマダムは思った。

 

 

 

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