婦人画報 昭和22年1月号 | 不思議戦隊★キンザザ

婦人画報 昭和22年1月号

画報である。現在では単独で使われることは滅多にないが、写真や挿絵を多用した刊行物を「画報」と呼ぶらしい。そんで「婦人画報」である。マダムが持っている婦人画報に対するイメージは「お高級」「おハイソ」「お上品」「お持たせ」なので、「お」嫌いのマダムは今まで一度も手にしたことはなかった。家庭画報との違いも分からん。そもそも婦人雑誌を購入する習慣がない。しかし今回に限り読みたい対談が掲載されているので古雑誌の婦人画報の購入に至った。

 

まさかこんなものにまで手を出すことになろうとは

 

昭和22年の婦人画報1月号である。いま調べたところ婦人画報は明治38年(!)、国木田独歩(!)によって創刊されたというなかなか歴史ある婦人雑誌であることが分かった。手に入れたブツはかなりボロいが読めればいいのでオッケーだ。

早速目当ての対談を読み終えて、そのほかの記事や特集につらつら目を通してみたら、これが案外面白いのである。何が面白いのかというと時世である。記事の背景に時世が見えるのである。それを紹介したいと思う。

まず目次である。予定されていたグラビヤページが黒く塗りつぶされていた。け・・・検閲?戦中でもないのに一体どうしたことか?と訝しむと

 

プライマン家のなんとか案内

 

「今月号に予定のグラビヤ四頁は焼失により掲載不能になりました」との断り書きが。マジかよ!そんなの有りかよ!えれーラフだな。手作り感を感じるぜ。黒塗りを透かして見ると「プライマン家の人々」とある。誰だよ!

 

グラビヤが焼失したので巻頭を飾るのはファッションである。まだまだ物資の足らない時代だからだろうか「和服地を生かしたよそゆき」に5ページ割いてある。和服を洋服に仕立てかえるポイントなどを紹介しているのだが、それが簡単な説明とイラストだけで詳しい仕立て方というかパターンさえ載ってない。当時の婦人はこれを読んだだけで仕立てかえることができたのだろうか。それとも仕立て屋に頼んだのだろうか。分からない。

 

現在でも通用するモダンさ

 

洋服を美しく装うためにはファウンデーション、つまり下着も大切である。和服と洋服では着ける下着も違う。洋服のおしゃれに必要な下着の紹介ページでは「ブラジェール(乳押さへ)」やら「コーセット又はガードル」やら「パンティース又はドロアース又はブルーマス」といった新しい言語での説明が詳しく掲載されている。しかもこれは「洋裁教室」ページなので自作のための記事なのである。パンティースにはクレープ・デシンでレースをはめ込めとか、なかなかオシャレ度が高い。

 

このイラストで自作しろというのか!

 

お母さまが和服を洋服のよそゆきに仕立て変えておしゃれをしたら、もちろんお子さんもおしゃれにしなければならない。そこで「お人形のような年頃の服装」である。洗礼を受けるための特別な美しいドレスとか紹介してるけど、当時の日本でこれを必要とするひとがどれだけいたのだろうか。目の保養の一種だろうか。

 

おくるみでいいじゃん

 

赤ちゃんのおしゃれがあれば、少女のおしゃれにも手を抜けない。「可愛らしい通学服」とあるが、一体どれだけの子供がこのような服装で通学出来たであろうか。マダムは昭和40年代生まれだけどさ、マダムの幼少時でもこんな格好して通学してる子供はいなかったぞ。もしかして年代は関係なく地域と親の年収によるのか。そうか。

 

どこのお嬢さんか

 

なんでも手作りの時代、ニットも自作する婦人が多かったのか編み図も掲載されている。チョー簡素な編み図だが、マダムのママだったら編めるかもしれない。

 

もっと情報を・・・

 

婦人雑誌なので広告も多く(現在ほどではない)、随所に洋裁教室の広告が。反対に和裁教室の広告はあまりない。

 

女性の手に職

 

都心ばっかりだけど地方はどうだったんだ

 

「婦人編集記者募集」の広告があった。25歳くらいまでの独身者という条件が付いている。いまでは考えられないが、こういう時代を経て現在があるのだ。

 

学歴は関係ないのか

 

広告のほとんどを占めているのは化粧品の広告だ。

 

手描き感

 

裏表紙

 

飲み薬関係の広告もいくつかあるのだが「凍傷に」「女性に内服で女性合成ホルモン」「ヒステリー等の婦人病に」「乳汁不足」などパンチの効いたコピーが並ぶ。一体どんな成分を使っているんだ。

 

風邪薬かな?

 

貴重動物臓器薬?なにそれこわい

 

男性が飲んだらどうなるんだ

 

カルシウムかな

 

農林省うんたらかんたら(ホントかよ)

 

もちろん料理ページもあって、「果汁羹」のレシピでは「連合軍からの放出缶詰のうちにいろいろな果汁がありましたが、これを利用してお正月の果汁羹を作りましょう」とある。連合軍の放出缶詰!そうか、昭和22年といえばまだアメリカ占領下だったんだ。

 

二合五勺がどのくらいの量なのか分からない

 

こちらは新しい家庭を築いたばかりの若いふたりのための間取り紹介。ほぼワンルームで畳の部屋がないことに驚き!戦争に負けたからって住まいまでメリケンに従うことないのに。うーん。それともこれがハイカラだったのか?

 

借りるのか?建てるのか?

 

ソーファベッドがハイカラっすね

 

婦人はファッションや化粧や料理だけにうつつを抜かしていたわけではない。教養としての芸術・科学では仏文学者の河盛好蔵が寄稿しており、なにやら高尚な芸術精神論を語っている。読みやすい大衆小説より優れた文学を読めといっているが、どういったものが優れた文学なのか紹介はない。まあ、言わんとしていることは分かるけど、こうやって昔の文学者は一般民衆を煙に巻いていたのだなあと思った。

さらに海外の最新流行情報では、ヘミングウェイの新作紹介、ブロードウェイで人気の作品、ハリウッド映画に登場するヒロインのタイプ、アメリカのマナー本の作者エミリー・ポスト夫人の紹介など。全部アメリカばっかだけど、やっぱ占領下だったからか?

読み物は坂口安吾の「わたしは海を抱きしめていたい」が掲載され、挿絵は東郷青児だ!なんて豪華なんだ!

 

これはもう前衛

 

さらに「天皇の御身分はどう変わったか」という記事もQ&A式で掲載されている。答えているのは堀眞琴、どういう人物だったかというと戦前戦中は愛国党的、戦後は左翼という当時としては自己保身という意味で一般的な人物であったらしい。Q&Aもさほど進歩的な内容ではなく、何か言ってるけど何を言っているのかわからない形式の問答であった。とはいえ一介の婦人雑誌が陛下の写真を掲載し、陛下のお立場について言及することが出来たとは大変な社会の変わりようである。こうなったら戦中に発行されたものも読んでみたい。

 

敗戦から2年も経ってないのに

 

以上、昭和22年の婦人画報からお送りしました。

 

え?対談?あっ、忘れてた!これが読みたくてこの号を買ったんだった。それが、こちら。織田作之助と林芙美子の特別対談である。

 

ふたりとも当時の流行作家

 

対談は林の自宅で行われた。織田作と林はことのきが初対面だったが、姉御肌の林と女姉妹に囲まれて育った織田作は途端に馬が合ったと見えてリラックスした様子で始まった。テーマは「処女という観念について」である。
織田作が「処女性なんてものは男のエゴイズムが生んだ観念に過ぎない」とブースターをかけると、すかさず林が「古い観念に盲目に従うのではなく疑うことも大切。観念なんて一度忘れて自分の頭で考えなければ」と加勢する。ざっくりいうと、処女とか非処女とかどーでもよくね?というのがふたりの一致した意見である。この時代にこの内容はなかなか過激ではなかろうか。しかも婦人画報だぜ。

対談の中で林芙美子は「肉体的処女より、精神的処女で居よ」ってなことをおっしゃっている。さすが姉御である。姉御の小説は読んだことないので今度読んでみよう。更に姉御は織田作の作品について「エロではなく反逆だ」と言い切り織田作を勇気づけている。なんてカッコいいんだ、姉御!

 

織田作は売れっ子流行作家ではあったが、彼の作品は文学の神様(笑)から「汚らわしい」と断罪されていた。神様から断罪されたのは織田作だけではなく太宰もそうであった。神様の断罪にかなりムカっ腹を立てた太宰は、生涯で最も素晴らしい「如是我聞」を上梓した。これはまた別の機会に。

 

包容力ありありな姉御の力強い発言に、織田作はどんなに勇気づけられただろうか。その頃の織田作は新聞小説「土曜夫人」執筆のため大阪から上京したばかりであった。仮住まいの旅館に缶詰状態でヒロポンを打ちながら小説を書きまくっていた。小説だけではない。戯曲や批評、映画の脚本まで手当たり次第に書き散らかし、、講演も行い(何をしゃべったんだろう)、その合間に林と対談している。太宰治、坂口安吾との無頼座談会もこの頃である。昭和21年の11月であった。

 

例の皮ジャンを着た織田作

 

さて、織田作と林芙美子が対談したその場所に、織田作の愛人、輪島昭子がいた。初対面の林芙美子との対談に愛人を連れていくとは織田作も大胆である。しかも対談場所は林の自宅なのである。織田作は林に「これ、うちの・・・」と昭子を紹介した。「うちの・・・」と紹介されても、織田作が一番愛しているのは3年前に喪った先妻の一枝さんということを昭子は知っている。織田作は一枝の納骨を拒み、2年も愛妻の骨壺を持ち歩いた男だ。そんな男が林芙美子という大作家に女房として昭子を紹介したのである。もしかしたら織田作は幽かな予感があったのかも知れない。

 

この対談の2ヵ月後、織田作は息を引き取ったのである。

(昭子についてはまたいつか)

 

 

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