もう一度、文学 坂口安吾 | 不思議戦隊★キンザザ

もう一度、文学 坂口安吾

坂口安吾。日本文学史上に輝く、無頼派のひとりである。もともと20世紀のフランス文学を好んでいたらしく、安吾独特の私小説は、自然主義から続く実存主義がベースになっていると思われる。


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無頼100%


最も有名なのは「堕落論」「白痴」「桜の森の満開の下」あたりだろうか。
マダムが初めて安吾を読んだのは、高校の現国の教科書、掲載されていたのは「桜の森の満開の下」であった。

男が女を背負って、満開の桜の下へ足を踏み入れるラストシーン。これは、女には書けない物語だと思った。男が満開の桜を怖がっているのは分かる。が、なぜ怖がっているのかは分からなかった。でも、凄いと思った。
その教科書には、他にも梶井基次郎「桜の木の下には」、安部公房「赤い繭」も掲載されており、今から考えるとなかなか渋い教科書であった。


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あっ、肝臓先生忘れた!


明日もわからない戦争末期、非常時に慣れていくにつれ、あやふやになっていく現実感を、部屋に押し掛けてきた隣家の白痴女に絡めて書いた「白痴」。
戦争という破壊の下で、ひとつの犯罪もなく徹底した秩序を保って生活する人々を、平和な阿呆と言い切り、個人の欲望より愛国的情熱が上回っている世間を、虚しい美になぞらえる。世間が戦時下にふさわしく変容してゆく(踊らされている?)空気の中、自らも無駄に生を生きていると思わせる「魔の退屈」。 
終戦後の猥雑さに人間の生々しい生命力を見出し、正しく堕落することこそ、真に自分自身を発見し、救われることに他ならないと説いた「堕落論」。堕落論は、魔の退屈を更に昇華させたものだ。と思う。


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父親の威厳0%


若かりし頃のマダムは「いずこへ」が一等好きだった。
鍋や釜が自分の生活圏に入ってくることへの不快、男の部屋へ生活を持ち込む女を唾棄する態度、貧乏人が貧乏人らしく貧乏暮らしをしていることへの憎悪。俺だったら、長く細く生きようなんて、これっぽっちも考えない。
一ヶ月の生活費を一日で浪費し、残りの29日は水を飲んで暮したって構わない。喰うために労働するなんて真っ平だ。生活品を所有するなんて真っ平だ。俺は落伍者で構わない。金はなくても、落伍者の矜持と覚悟は持っている。
主人公は安吾自身だ。


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無頼120%


この小説を初めて読んだとき、なんてカッコいいんだろう!と思った。これが無頼か!と思った。
人生という荒野で、仄暗い理想と憎悪をあい抱き、しっかりと大地を踏みしめて立っている男を思い描いて、うっとりとした。


間違いだった。


大人になって再読した安吾は、昔憧れたように安定した落伍者などではなかった。
確かに安吾は無頼であろう。しかし、安吾の無頼は、女に甘えて成立する無頼だと確信するに至った。
もしかしたらそれこそ無頼と呼ぶのかもしれないが、なにものにも迎合しない男の孤高さと痩せ我慢こそが無頼、とマダムは信じているので、女を卑下しながら、その実、女に依存し、依存していることに気付かないふりをしている安吾の狡さに気づいて、焦った。
安吾はやせ我慢などしない。安吾の無頼は、やせ我慢を心配してくれる女を配置し、安心してやせ我慢するのである。


「いずこへ」に登場する女は、実際に安吾の妻となった三千代である。三千代は安吾の死後、安吾との生活を綴った「クラクラ日記」を執筆しており、マダムはうっかり読んでしまったのだ。これが間違いのもとだったのかもしれない。


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軽妙に赤裸々


安吾が三千代と出会ったとき、三千代は子持ちの人妻だった。別居はしていたものの、籍は抜いていなかった。
待合い(戦前のラブホテル仕様の旅館)で生まれ育った三千代は、安吾が「いずこへ」で描いたような、生活臭に染まった女ではなかった。子供を放って、安吾の部屋に泊まることのできる女であった。
三千代は子供を母親に預け、安吾と一緒になった。安吾は三千代がそういった女であることを、一目で見抜いたのであろう。

まだ若く、世間知らずで奔放な三千代だったからこそ、安吾は選んだのだ。


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長男綱男は安吾にとって初めての子供


安吾がなにをやっても三千代は叱ったりしない。安吾に対して何か意見したり、訴えたりすることもない。安吾が狂ってゆくときも、ただただ傍にいるだけだ。傍にいて、オロオロするばかりだ。
三千代は安吾のストッパーには成り得なかった。だが、最後まで見捨てなかった。
それを知っている安吾は、安心して傍若無人に振る舞うことができたわけだ。混沌の中の予定調和だ。


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たぶん晩年の三千代さん


さて、安吾について少々偏った感想を述べてみた。
作品と作家本人は分けて考えるべきである、とマダムは常々思っている。しかし私小説風味の作品に限っては、分けて考えることが難しい。その上、坂口夫人の思い出話まで読んでしまったので、こういった感想を持ってしまったのである。


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バー時代の三千代さん


では安吾に対して興味を失ったか?否。答えは断じて否である。

むしろ、ダメな部分を知って、ますます愛おしい。ダメンズ好きの血が騒ぐ。相変わらず(昔とは違った意味で)、「安吾すげえ」と素直に思わざるを得ない。

でも、好きな作品は変わった。いま最も好きな作品は「青鬼の褌を洗う女」である。
最後の一文に、たまらなく共感する。


 私は谷川で青鬼の虎の皮のフンドシを洗っている。私はフンドシを干すのを忘れて、谷川のふちで眠ってしまう。
 青鬼が私をゆさぶる。私は目をさましてニッコリする。カッコウだのホトトギスだの山鳩がないている。
 私はそんなものよりも青鬼の調子外れの胴間声が好きだ。私はニッコリして彼に腕をさしだすだろう。
 すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。


他人なのに、なつかしい。懐かしさを覚える男が与えてくれる安堵感を、マダムも知っている。
RCサクセションに「君が僕を知ってる」という名曲があるけど、あんな感じ。



※無頼派について
マダムの思い描く無頼派とは、本文内でも述べているが「決して迎合しない孤高と痩せ我慢、ちょっと赤裸々」である。
しかし本来、無頼派と分類されるものは、第二次世界大戦後、近代の既成文学全般への批判に基づき、同傾向の作風を示した一群の日本の作家たちを総称する呼び方、だそうだ。(wiki調べ)
wikiの解説を読んでも、何のことやらマダムはさっぱり分からないが、一応記しておく。